鷹柱

眼下には群青の海が横たわっていた。 正面には小さな島が浮かんでいたが そこから向こうの景色は靄の中に隠れて見えなかった。 岬 水すみて 秋 空翠杳(くら)し おもいありやなしや 菊 ただ白きかな 大分県出身の後藤三郎という青年… 京大で哲学を学んでい…

ドア

このドアから、娘が家を出て行った。 このマンションに来てから21年。当時、娘は中学1年生。 毎日このドアから「行ってきます!」と言って元気に飛び出し 毎日このドアを開けて「ただいま!」と元気に帰ってくる。 娘がこのドアから入ってくると、家の中にぱ…

山刀伐峠の蓮

早朝に赤倉温泉の宿を出て、尾花沢に向かう県道を走っていくと 山刀伐(なたぎり)峠のトンネルを抜けて、長い下り坂を降りてきたところに不意に棚田が現れました。 それはほどんど散り終わった蓮田でしたが、 そのなかに、ぽつりぽつりと花が咲いているのが…

落柿舎

濡れた棟門に、百日紅の花が散り積もっていた。 柿の実は未だ青く、 落柿舎の濃い緑の中に色を添えていたのは百日紅ばかりだった。 嵯峨に遊びて去来が落柿舎に到る。凡兆共に来たりて、暮に及て京に帰る。 予はなほ暫くとどむべき由にて、障子つづくり、葎…

鳥海山 Ⅱ  南蛮居酒屋やぐ

鶴岡に入った頃にはもう日が落ちていたので、19時を回っていたと思う。 月山道路を抜けて庄内平野に入ったときに、遠く田園地帯の彼方に鳥海山が見えたが、先を急いでいたので、一瞥しただけで通り過ぎた。 今夜はあのバーに行くと決めて来たのだ。南蛮居酒…

鳥海山 Ⅰ

海岸沿いの道の右側に迫る山が不意に途切れて視界が開けた。 どうやら、庄内平野の南端に出たようだった。 眼の前で弓なりに伸びた海岸線の遥か先に、鳥海山が霞のなかに美しい稜線を広げていた。 それは、日本海から吹き上げて来る風がそのまま化身したよう…

星峠

越後の空には、5月の眩い光があふれていた。夕方までに岡崎に行けばよいので、急ぐことはなく 国道117号線で飯山方面に向かって、そこから上信越道・中央道で行くことにした。 5年前に友人と訪れた越後妻有を通るので、あの景色を見て行こうと思い、 早朝に…

ひかげの花

いつの間にか空一面に広がった雲の重さに背を押されるように 僕は急ぎ足で海岸通りを歩いていた。 頬のうえに雨粒がひとつ… ふと立ち止まって天を見上げる。 網膜に映った蒼鼠色の空が、そのまま胸中にひろがっていった。丘の上の公園の5月の花に逢いに出か…

倒木

長く尾を引くため息のような稜線の向こうに 雲で輪郭の滲んだ太陽が静かに迫っていた。 陽光は朱くなりきれずに雲のなかに力なく散乱し 空を淡い鬱金に染め、そこからこぼれた光の粒は 湖面の漣の上に散らばって銀色の残像を残して沈んでいった。 早朝に小樽…

厚田の夕暮れ

留萌の海岸に出るころになって、やっと雨があがった。 朝、札幌のホテルを出てからもう200㎞も走ってきたのに 記憶に残っていたのは、雨に霞む白樺の林と その間を流れる雪融け水で増水した泥の川と ぬかるんだ道路脇にどこまでも連なるふきのとうだけであっ…

乳母車

薄紅の花びらが降りしきるその下で、白い手が揺れている。 前へ後ろへ… 行きつ戻りつ… ゆっくりと規則正しく、しかしよるべなく その手が握っているのは、ベビーカーのハンドルだった。 公園のベンチに腰掛けた若い母親の疲れ切った背中は老人のように力なく…

「雪国」 ここに生きる 井山計一さんのこと3

「そんなところに立っていないで、中にお入りなさい」 背後で声がして振り返ると、井山さんが立っておられた。昨日電話をしたものの、やはりカウンターに座りたいと思って 30分前に「ケルン」の前に着いて、開店を待っていたのだ。 既に店の奥には灯りがつい…

「YUKIGUNI]をめぐる出会い 井山計一さんのこと2

酒田には仙台から車で向かうことにした。 夜遅めの時間に仙台国分町のホテルに入り そのバーに向かう前に、居酒屋で食事をした。 カウンターで地元のお客さんに声をかけていただき 楽しい時間を過ごす。 BAR『門』は昭和24年の創業… あのカクテル「雪国」誕…

雪国に生きる…井山計一さんのこと1

その日、僕はしんしんと降る雪のなかを行ったり来たりしながら 三階建ての旧いビルの前で「ケルン」が開くのを待っていた。 厚い雲に覆われていた空は昼から薄暗かったが、 日没の時間を過ぎて、街灯のまばらな街は一気に闇に包まれていった。映画で見たシー…

白梅の祈り

光の気配を感じて目を覚ますと、わたしは満開の梅の花の園におりました。 冷たく湿った大気を覆うように、飴色の雲が空一面にひろがっています。 頬に小さな雫がひとつ…わたしは夢のなかで泣いていたのかしら… ずっと一緒にいたはずのあなたが見当たりません…

波紋

森の外には雨が降り出したようだった。 木立の隙間から見える田園も雪を被った立山も シルクのヴェールに包まれていった。冬でも枯れることのない沢杉の森は 雨を吸い込んでしっとりと膨らんでいくようだった。 鬱蒼と頭上を覆う木立の下には、まだ雨は落ち…

阿寺渓谷

車を降りた瞬間に、冷気が肌に刺さった。 ガードレールに手をついて、恐るおそる切り立った谷底を覗き見る。 冬は車も入ってくることのない山の中... すべてが寝静まりまた死に絶えた灰色の世界のなかで その川の水だけが碧い眼差しで天を見上げながら流れて…

月山

庄内平野を渡っていく風が、田んぼに積もった粉雪を巻き上げて 無数の渦を作りながら、乾いたアスファルトのうえを横切っていった。 午後になって、気温はやっと零度を超えたが 強風にあおられた細かい氷の粒は砂嵐のように襲いかかってきて 顔じゅうに突き…

倉敷川の紅葉

名残の紅葉が、力尽きたように一枚また一枚と枝から落ちて 水源のない倉敷川のどん詰まりの 黒い水面に貼りついてゆく。 乾いた葉は水を吸って一瞬息を吹き返し、 黒地に錦繍の柄を描いていった。 初冬の乳色の空の上に 輪郭のはっきりした白い太陽が上がっ…

紅に染まる

ゆらゆらと波立つ清流の水面が、 血を流したような深紅に染まっていた。紅葉の盛りを過ぎたくらがり渓谷… 僕はひとりになりたくて、歩道を逸れた渓流伝いに森の奥へ奥へと歩いていった。 悩める一人の友を想いながら... 傾斜が緩やかになったそのとき ふと足…

能舞台『沖宮』

能舞台のうえで緋色の花がぱっと咲いた。 白装束の少女あやが 目の覚めるような鮮やかな紅の長絹に袖を通す。 小さな白足袋が舞台を滑り 能舞台は佳境に入っていった。 水俣病との闘いに生涯をささげた石牟礼道子さんが 最後の力を振り絞って遺言として書い…

雨の兼六園

川を模した流れにかかる石橋に差しかかったとき 薄鼠色の空から糸のような雨が落ち始めた。 水面に浮かんだ輪郭のぼやけた太陽が 折り重なる同心円のうえで拡がっては消えてゆく。流れから取り残された黄葉の配列さえもが 庭師たちの企みではないかと思うほ…

鉄橋

錆びの浮いた鉄骨の下にたまった雨の滴が膨らんでは落ちて 暗い水面に不規則な波紋をつくっていた。 ゆっくりと流れてきた紅葉の落ち葉の列が波紋のうえで微かに揺らめく... 見事に色づいた錦繍を背にして、その鉄橋はただ静かに佇んでいた。 新潟から鶴岡に…

堂島川

北新地の居酒屋で飲んでから、酔い覚ましにふらふらと歩いて 気が付いたら堂島川の畔に出ていた。 8年前に突然仕事を失って滋賀から家に帰る気になれず 逃れてきた大阪で泥のように酔っぱらって、ここに来た夜を思い出す。 四度の転職、そして三度目の失業だ…

曼珠沙華と中川幸夫と

黄金色に染まりはじめた田園に 曼珠沙華の花が咲いていた。 狂おしく燃えた夏の恋の残像のように 身を捩りながらが燃える花びら。 天に向かってまっすぐに伸びる蕊は 彼女の祈りか... 残暑の眩しい陽射しの中でぱっと燃えて あっという間に萎れて堕ちて行く…

川のように...

その川にかかる橋を渡るとき 視界に入ったその色に驚いて慌てて車を停めた。 なんという色だろう... まるで顔料を流したような鮮やかなターコイズブルー川沿いの木立に車を置いて 岩を伝って川岸に降りていった。大きな岩のうえに立って川上の方を見ると 大…

常願寺川の夕暮れ

夕陽からこぼれ落ちた光の道が、 波に揺られるごとに色を増しながら海に拡がっていった。赤銅色に染まりゆく波のうえに影絵のようなサーフィンが三艘、 木の葉のようにゆらゆらと揺れていた。 昼間のぎらつく太陽は、真夏のそれと変わらなかったのに 海辺の…

叔父に会いに...

「向うに弥彦山が見えるだろ? 弥彦山はいい山だ...」 そう言ったまま征三郎叔父はまた沈黙した。 ベッドから起き上がれない叔父の姿を見るのがちょっとせつなくて 僕も黙って叔父からは見えない窓の外を見ていた。 黄金色に染まりはじめた田園の向うに、 美…

常滑 火を吸いこんだ土

四角い煉瓦積みの煙突が 梅雨の合間の白藍色の空を見上げていた。常滑には夕陽を観に何度か来たことがあったが 泊まったのは初めてだったから、朝の散歩に出た。 海を見おろす西向きの斜面にはりめぐらされた迷路のような 街のいたるところに積み上げられ、…

鏡池にて

父親に手を引かれた少女の少し縮れた髪が風になびいて 初夏の陽射しのなかで金色に波打っていた。 戸隠山から吹き下ろすその風は鏡池に細波を立て 尖った稜線は、ざわめく水面の上で滲んで空に溶けてゆく。 明日からの富山出張を一日前倒しして 新幹線を途中…