「雪国」 ここに生きる 井山計一さんのこと3

「そんなところに立っていないで、中にお入りなさい」
背後で声がして振り返ると、井山さんが立っておられた。

昨日電話をしたものの、やはりカウンターに座りたいと思って
30分前に「ケルン」の前に着いて、開店を待っていたのだ。
既に店の奥には灯りがついていて、準備をしている様子だった。

映画で見たお姿よりも少しお痩せになったようだったが
背筋はまっすぐに伸びて、矍鑠としておられた。
準備の邪魔になるのでここで待ちますと、お断りしたが
開店までお相手はできないがここは寒いからと言って、招き入れられた。
店の中から僕の後ろ姿を見て気遣ってくださったのだろう…
申し訳ないことをしたと思いながら、カウンターの隅の席に座る。

「昨日、電話をくれた人だね?」と井山さんに話しかけられる。
そしてしばらくすると、開店前なのに「何にしますか?」と問われ
もちろん「雪国を…」と答えた。
田舎の喫茶店の気さくなマスター… そんな雰囲気の話し方だったが
シェーカーを構えた瞬間に顔がきりっと引き締まる。
若いバーテンダーのようなスピード感はないが
熟練のシェーカーが描く軌跡に、思わず見入ってしまう。
バーテンダーになって70年… 
いったいどれほど人と語り合い、どれほどのカクテルを作ってきたのだろう…

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グラスの縁の細かい砂糖の粒子がふわっと唇に触れ
ミントの香りのする甘いカクテルが口のなかにひろがる。
古き良き昭和の味がした。

開店時間になると、次々と客が入ってくる。
隣に座ったのは、山形市内から来たという老夫婦
日本酒ばかりでカクテルを飲んだことがないというご主人と、アルコールの苦手な奥様
その隣には新潟から来たという若いカップル。
そして雑誌社の編集者という中年の女性。
いずれも映画を観て初めて来たという人ばかり
井山さんを中心に話の輪が広がる。
皆、それぞれの人生を生きて
そして、今日のこの日にここに集まってきたのだ。
そしてきっと二度と会うことはない

井山さんは、カクテルを作っている時以外は話好きな好々爺である。
僕もやっと落ち着いて、写真を撮る許可をいただき
隣の老夫婦がオーダーしたタイミングで写真を撮らせていただく。

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映画の話になると、
「僕はあの映画の意味がよくわからないんですよ」と仰る。
確かに構成が凝っていて、いろいろな人のインタビューを通しながら
酒田の歴史 井山さんの歴史 そして関わってきた人々の想いが重なっていくので
複雑といえば複雑だ。
バーテンダーの世界では間違えなくレジェンドではあるが
ご本人は、決してそんな意識はない。

暖房のきいた店のなかで、和やかな語らいが続く
一陣目の客が帰っていって、ふと息をつく井山さん
「実は今日調子が悪いので、少し座らせてもらいます」と言って、カウンターの中の隅に置いてある椅子に腰掛ける。
もし、僕が予約したから無理して店を開けたのなら申し訳ないと思い
「それなら、今日は早めに店をお閉めになってください」と言うと
「10:30までは、僕の時間ですから…」と一言
ああ、こうしてここで闘ってこられたのだなと思う。

その後も、実家が酒田にあるという東京の小学校の先生… 地元の市役所の職員さん…
次々に来ては、「雪国」を飲んで帰っていく。

「雪国」以外はヘルプで入っているバーテンダーさんが作るのだが
「雪国」だけは、皆、井山さんの作ったものを飲みに来るので
そのときだけすっと立ち上がってシェーカーを振るのだ。

そしてすべての客が帰って、ヘルプの方が片付けを始めたので
カウンターの中の椅子に掛けている井山さんにお礼を申し上げて店を出た。

店の外に出ると、街はもうひっそりとして寝静まっている。
かつての酒田は、こんなではなかったのだろうな…
1976年の酒田大火で、街はすっかり寂れてしまったようであった。

かつて淀川長治をして、「世界一ゴージャスな映画館」と言わしめた「グリーンハウス」
そこから出た火は海風に煽られて、当時にぎわっていた酒田の商店街を一夜にして焼き尽くした。
平安時代にすでに歴史の舞台に登場し、江戸時代には西の堺と並び称されるほど栄えた酒田の街は
それ以来すっかり静かになってしまった。

井山さんは、そんな歴史もずっとここで見てこられたのだ。
有名になったからと言っておごることもなく、この狭いカウンターの中で60年という歳月を
自分らしく生きたこられたのだ。

映画を観てここに来たと言った僕に対して
自分は特別な人間なんかではない…そういわれたような気がする。
ただ自分の道を誠実に生きてきただけだと。

思えば、誰にも知られないような無名な人々のなかにこそ偉大な人物がいるのだ。
雪解け水で少し水嵩を増した最上川の水面で揺れる街灯を眺めながら
胸のなかに春の風が吹き始めたような気がして大きく深呼吸をした。

「待ちかねる
雪国だとて
春祭り」
カウンターの奥の黒板に井山さんが書いた俳句が 夜空のなかに浮かび上がった。


おまけ
酒田に向かう道すがら撮った、雪解けの景色
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