乳母車

薄紅の花びらが降りしきるその下で、白い手が揺れている。
前へ後ろへ… 行きつ戻りつ…
ゆっくりと規則正しく、しかしよるべなく
その手が握っているのは、ベビーカーのハンドルだった。
公園のベンチに腰掛けた若い母親の疲れ切った背中は老人のように力なく屈み
呆然として…ただ右手だけが無意識にベビーカーを揺らしていたのだ。
俯いた視線は、我が子の方には向けられていないようだった。
その頭上には、そこだけ色の濃い八重桜が満開の花を開いてていた。

丘の緩やかな斜面につくられた広大な公園の一番隅にある
子供用の遊具のある広場には朝早いせいか人影は他になかった。
ときおり吹き付ける冷気を含んだ風が満開の桜の枝を波のように揺らし
枝から放たれて青空に吹き上げられた花びらは
やがて明るい陽射しの中でゆらゆらと舞いながら落ちてゆく。

舞い落ちる花びらに驚いているのか
ベビーカーの隅から、小さな白い足がひょこひょこと飛び出す。
マネキンのように動かない背中の横で
母の白い手と赤子の小さな足だけが別の生き物のように
違うリズムで、しかし絶え間なく動いていた。


気づかれてはいけない…そう思って踵を返して歩き出す。
そして僕はふと若き日の母の顔を思い浮かべた。
母はどんな顔をして僕を乗せた乳母車を押していたのだろうか…
八丈島で生まれ、幼少期に戦争を経験して、横浜に出てきたのは15歳
野毛で菓子屋を営む親戚の家に住み込みで働きながら大人になった。
母の話す過去は、いつも悲しく暗い思い出ばかり…
お金がなくてみじめだったこと…いじわるをされたこと…
父と結婚してからもずっと苦労は絶えず、経済的にもずっと厳しかった。
身体も弱くて、よく貧血を起こして寝込んでいた。
記憶に残っているはずもないのに
乳母車から見上げた母の悲し気な顔が映像になって浮かび上がる。
先の見えない苦しい生活… 我が子を育てていかねばならない不安…
それでも母は乳母車を押して歩き続けてくれたのだ。
母とはなんとありがたいものかと思う。
あの若い母親も、潰されそうな不安を抱きながらここに来たのだろうか
時代は変わっても、同じなのかもしれないな…母の哀しみとか祈りとか…


舞い落ちるこの美しい花びらも、厳しい冬の間に樹皮の下の闇の中でこの色を蓄えてきたのだ。
人も母の胎内で育まれて、光のなかに生まれてきた。
すべてのいのちは闇のなかから生まれてくるのだ。
たとえ今が無明の闇のなかにあったとしても、いつか美しく咲くための闇であれ
そんな願いを背後の母子に手向けた。

母よ、
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり


時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
轔々と私の乳母車を押せ


赤い総ある天鵞絨(びろおど)の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり


淡くかなしきもののふ
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知ってゐる
この道は遠く遠くはてしない道
               三好達治『測量船』より「乳母車」

その時、突然赤子の泣く声が聴こえて振り返ると
我に返ったように母親が子供をのぞき込み声をかけていた。
風がまた強く吹いて、花びらはいっそうはげしく降り始めた。


広場の奥に、丘の上へとまっすぐに伸びあがる長い階段があった。
春の光が射し込むその階段が、あの母子の未来のように思えて
僕は、母の顔を思い浮かべながらその階段を上り始めた。
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おまけ
丘の上の花 
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