父親に手を引かれた少女の少し縮れた髪が風になびいて
初夏の陽射しのなかで金色に波打っていた。
戸隠山から吹き下ろすその風は鏡池に細波を立て
尖った稜線は、ざわめく水面の上で滲んで空に溶けてゆく。
明日からの富山出張を一日前倒しして
新幹線を途中下車して妙高から戸隠へと走った。
人間に疲れ切って、逃避したくなったのだった。
鏡池という名前に惹かれて
あの御射鹿池のような光景を思い浮かべながら来てみたけれど
自分のいのちが映し出されたようなざらついた水面には
あのシンメトリーな美しい絵は浮かび上がりそうにもなかった。
何かが微妙にずれている....
そんな気がした。
ここからは見えないが、あの少女の瞳には
きっと何もかもが鮮明に映り込んでいるのだろうな…
黒い瞳のなかを流れゆく雲の白さを想う...
風に向って静かに立っている父娘の後ろを急ぎ足で通り過ぎて
僕は、森へと入っていった。
全身を包み込む冷気と木々の芳香
万緑の天蓋のどこかで春蝉の鳴き声が響いている。
足元には、芽吹いたばかりの幼木が並び立ち
木漏れ日の中に花が浮かび上がる。
ああなんという清らかさ
がさついた心が、しっとりと潤いを取りもどし
欠け落ちてずれていたいのちが
再生されていく
生きてゆかなければならない
この失敗にもかかわらず 茨木のり子
五月の風にのって
英語の朗読がきこえてくる
裏の家の大学生の声
ついで日本語の逐次訳が追いかける
どこかで発表しなければならないのか
よそゆきの気取った声で
英語と日本語交互に織りなし
その若々しさに
手を休め
聴きいれば
この失敗にもかかわらず……
この失敗にもかかわらず……
そこで はたりと 沈黙がきた
どうしたの? その先は
失恋の痛手にわかに疼きだしたのか
あるいは深い思索の淵に
突然ひきずり込まれたのか
吹きぬける風に
ふたたび彼の声はのらず
あとはライラックの匂いばかり
原文は知らないが
あとは私が続けよう
そう
この失敗にもかかわらず
私もまた生きてゆかねばならない
なぜかは知らず
生きている以上 生きものの味方をして
情景もなにも違うけれど…
ブログを書きながら、ふと最近読んだ詩を思い出した。
(8か月も遅れて2019年2月に書いている)
絶句してしまうような失敗ばかりだったな…
でも生きてきた。
これからも生きていかねばならない。
あの幼木はいつまで生きられるのか...
冬になれば分厚い雪のしたで朽ちてしまうものもあるだろう
生存競争に敗れて枯れてしまうものもあるだろう
大木に育つのは、奇跡のまた奇跡なのだ
そうしてみると、いまここに自分が生きていることもまた奇跡なのかな
森を抜けた先に池が現れた。
澄み切ったあの少女の瞳が、そこに横たわっていた。
- 作者: 茨木のり子,水内喜久雄,はたこうしろう
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2019年2月16日掲載