叔父に会いに...

「向うに弥彦山が見えるだろ? 弥彦山はいい山だ...」
そう言ったまま征三郎叔父はまた沈黙した。
ベッドから起き上がれない叔父の姿を見るのがちょっとせつなくて
僕も黙って叔父からは見えない窓の外を見ていた。
黄金色に染まりはじめた田園の向うに、
美しい稜線をひろげた弥彦山が雲を携えて静かに佇んでいた。
父もこの景色を見て育ったんだな…とふと思った。


やがて叔父の弱々しい寝息がベッドからたちのぼってきた。
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長岡に仕事で来たのは久しぶりのことだった。
週末だし…父の兄弟に会って父の近況を知らせておこうと思って、長岡の駅前に宿をとった。
五人兄弟のうち一人は亡くなっているが、あとの三人はこの辺りに暮らしている。
昨日は燕の秋枝叔母の家に行って、晩飯をご馳走になりながら2時間ほど...
そして今日は弟の征三郎叔父の入っている施設を教えてもらって、突然会いに来た。
昼食が終わってベッドで眠っていた叔父は、「お客さんですよ」という施設の人の声で目を覚まし
ベッドに横たわったまま顔だけこちらに向けて、少し驚いたように僕の顔を見てから
よぉと手を上げた。
僕がベッドの横の丸椅子にかけると「こんな情けない姿になっちまったよ」とぽつりと言った。


征三郎叔父が60年以上過ごしてきた東京の家を引き払って
夫婦で故郷に近いこの施設に入ったのは一年ほど前のことだった。
ご近所の幼馴染同志で結婚した二人はとても仲が良くて、
御茶ノ水で二人で小さな写真屋を営んでいた。
新聞社や出版社の現像を中心に、商売をしていた。


時代の流れでそんな商売は需要がなくなり、店を閉めて郊外に移り住んだ頃、
叔父はパーキンソン病と診断された。
病気の進行もあってか、夫婦で一緒に故郷の施設に入ることにしたようで
弥彦山の見える二人部屋を望んでここに入所した。
ところが、入所して間もなく元気だった叔母の方が突然亡くなった。
身体が動かなくなっていく失望に追い打ちをかけるような
最愛の妻の突然の死...
叔父の悲しみはいかばかりであったか...
写真立てのなかで、若き日の二人が笑っている。

日はゆき、もはや名ごりを留めず
 ぬれ空、星のかげも見えない
 ぬれがけらのことく私は帰る。
・・・・・・・・
宇宙の底より湧くと覚しき
 暗黒がわたしの霊を呑んで
 平安は跡もなく消え失せた
泣こうか、否、祈ろうか、否、
 一切の否定、否定の否定
旋風にめぐる木の葉のように
 心は宙にから舞い、身もまた
 いつしかぐるぐると歩き廻る
  藤井武『愛するものに死なれること』

兄弟なのにあまり似ていないと思っていたが
寝顔は、父のそれと瓜二つだった。
平安な寝顔を見ていると、それが哀しい夢ではなく、
楽しい思い出をまぶたの裏に描いているだろう...
目の前から愛する人がいなくなることは哀しいけれど
忘れないでいるかぎり、その人はいつも胸の中で微笑む


少し話してはいつしか眠りに落ち、そしてまた目を醒ます。
そんな繰り返しで、いつしか陽が傾きはじめていた。
負担をかけてはいけないな…そう思って席を立った。
部屋の引き戸を開けて振り返ると
懸命に身体を起こして手を振ってくれている叔父の姿があった。
僕は泣きそうになって「また来るね」と大きな声で言ってから
ゆっくりと引き戸を閉めた。


車を走らせて海岸を西へ...
雲が多くて夕陽は見れるかどうかわからなかったが
今日は美しい夕陽がどうしても見たいと思った。


しかし...
たどりついた岬の上に立つと、雲の一部分がほんのり色づいただけで
太陽はそのまま沈もうとしていた。
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どうか一瞬だけでも、美しく燃えてください!
願いながら、急な石段を駆け下りていくと、
不意に雲の隙間から太陽がのぞいた。

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そして、その熱が瞬く間に雲に燃え移って
日没後の空と海を一気に染め抜いていった。


若き日の叔父の笑顔が浮かんだ。

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                    2019年3月9日掲載

おまけ

生れてはじめて撮った写真は、征三郎叔父の撮影

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