鷹柱

眼下には群青の海が横たわっていた。
正面には小さな島が浮かんでいたが
そこから向こうの景色は靄の中に隠れて見えなかった。


 岬 水すみて
 秋 空翠杳(くら)し
 おもいありやなしや
 菊 ただ白きかな

大分県出身の後藤三郎という青年…
京大で哲学を学んでいた彼が『孤櫂(ことう)・信濃路の手記』に遺した詩である。
国東半島の岬に石碑が建てられたという…
学徒出陣に招集され、フィリピンに散った若きいのちが目にした海と
同じ色なのかなと思った。

展望台とは名ばかりの断崖の上の小さな平地には、
ジムニーが一台 その脇にキャンプ用の折りたたみ椅子が置いてあり、
老人が一人、双眼鏡を構えて海の方を眺めていた。

その展望台への道は、険しく長い道であった。
高速道路を降りてからいきなり暗い森に入り、
車がすれ違うこともできないような曲がりくねった山道を延々と走ってきた。
2週間前に九州を直撃した雨の爪痕は未だ生々しく
細かい落石が道の脇に積もり、濡れた落ち葉がアスファルトにへばりついていた。
ナビでは5kmとなっていたが、恐る恐る走った距離はその何倍にも思えて
途中で引き返そうと何度も思った。

午前中、宮崎での仕事を終えて、今夜は別府でNさんと会うことになっていたので
海岸沿いの道を走りながら景色を楽しんで行こうと思った。
Google Mapsでふと目に止まった横島展望台…
ここから海沿いに北上していけば良いな…そう思って、ナビをセットしたのだった。

車の音に気がついて、老人が振り返った。
車から降りて挨拶をすると、「鹿児島からですか?」と聴かれた。
小倉で借りたレンタカーが鹿児島ナンバーだったのだ。
「いえ、横浜から仕事で来ています」と答えると
にっこり笑って、家の息子は横浜に住んでいるんですよと言った。
その笑顔があまりに柔らかくて、まるで旧知の人のように思えて
自然と会話が始まった。

とりとめもなく30分も話しただろうか…ふと思い出したように彼は
鷹柱をご存知ですか?と僕に聴いた。知りませんと答えると、
サシバという鷹がこの時期に東北から九州に向かって渡ってくるのだと言って、東の空を指さした。
今日は見えないが、晴れていれば四国が見える。宿毛あたりからこちらに向かって
数十から数百の群れが海を渡ってきて、陸地の上に来るとそこで旋回する。
それが柱のように見えるので鷹柱というのだと…

この季節になると鷹柱が見たくて、
延岡から毎日このあたりに通っているのだと言う…
「お金のかからない年寄りの趣味です」
毎日通っていても十度に一度見れれば良いほうで、
しかも、気象条件などで日によって旋回場所が変わるので
自分がいる場所に鷹柱ができることなどほとんどないことだと…
「今年もここに通い始めて一度見ましたが、それから一週間も現れません。
 今日も朝からいますが、この時間で来ないということは、駄目かもしれないですね」
と言うと、大きなカメラを車から下ろして、以前撮影したという動画を見せてくれた。
液晶の中で旋回する鷹の画像を見ながら、なんと健気ないのちの営みだろうと思った。

「私には夢があって、あの深島の上に鷹柱ができるのを見ることなんです。
 でも夢なんて、叶わないほうがよいのかもしれません。」
そう言ってまた目尻に皺を寄せて笑った。

「さあ、そろそろ引き上げましょうかね。今日はあなたに会えて楽しかった」
そう言って、彼はカメラを車に積んだ。
…と、その時、海の方を見ると一羽の小さな鳥の影がこちらに向かって飛んで来るのが見えた。
鳶よりは小さくカラスよりは少し大きいその鳥は、鷹のような形にも見えた。
老人は片付けをしていて気がついていない。
目を凝らしていると、同じ影が5つ6つ…
振り向いて、老人に「あれは何の鳥ですか」と尋ねた。
彼が海の方向に視線を向けたとき、鳥の数は数十に膨らんでいた。
「あ!サシバです。これですよ!」と興奮して、車に積んだカメラを持ち出して
空に向かって構えた。
岬の上に到達したサシバの群れは、そして大きな円を描いて旋回を始めた。
「あなたは、なんて運のいい人だ!」
そう叫ぶと、老人は夢中で動画を撮り始めた。
動画に声が入ってはいけないと思って、僕は黙って空を見上げた。

老人が興奮しながら口にした言葉…
「あなたは、なんて運のいい人だ!」という一言を何度も反芻しながら…
鷹の群が、曇った空の下をゆっくりと旋回するのを見ていたら
涙がじわりとにじんだ。
このまま上を見ていたら、
自分のいのちまでもが空に吸い寄せられてあの空を飛んでいけるような気すらした。

あんなに小さな身体で、1000km以上の旅をしてきたのだな。
ある時は風雨に晒され、ある時は風を味方にして…
生きるために… サシバという鳥に生まれた運命に従いながら…
ここは旅の終盤になる。あと少しで冬越えの地に到着するのだ。

自分がこの場所に来たことが運命のように思えた。
あの暗い険しい森の道が不意に開けて見えた碧い海が
今こうして空を旋回している奇跡のような鷹柱が…
これまでの人生が、ここに繋がっているように思えた。
迷いながらも、目の前の道にしたがって来たここが
来るべき場所だったのかもしれないな。
それにしてもなんと美しい場所だろう。

「俺はきっと運がよいのだ。」
そうつぶやくと、胸の中でなにか温かいものが湧き上がってくるような気がした。

鷹の群はしばらく旋回すると、
寝床を見つけたのか
静かに森の中へと消えていった。

海は黙って空を見上げ、小さないのちの営みを見上げていた。
岬の上に立つ二人の男の姿も見えていただろうか…