堂島川

北新地の居酒屋で飲んでから、酔い覚ましにふらふらと歩いて
気が付いたら堂島川の畔に出ていた。
8年前に突然仕事を失って滋賀から家に帰る気になれず
逃れてきた大阪で泥のように酔っぱらって、ここに来た夜を思い出す。
四度の転職、そして三度目の失業だった。
夜の堂島川に来たのは あれ以来だな…
両岸に並ぶ立派な高層ビルの冷たい灯りが、真っ暗な川面で滲む。
あの日もこの黒い川面を見おろして茫然としていた。
そしてこの暗い水のなかに潜り込むような日々が始まったのだ。
失業は一年以上続いた。
こうして元気で戻ってくるまで8年かかったのだなと思う。

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中之島の西端まで行けば『泥の河』の記念碑があることを思い出す。
そしてその途中には、宮本先生と思い出を刻んだリーガロイヤルホテルもある。
そこまで歩こうと思った。
20歳の原点の場所に...
高速道路が走り、ビルが建ち並んで、昭和30年の名残など何もないように思うが...
それでも『泥の河』はここで生まれ、宮本輝という大作家はここから飛翔したのだ。


川を渡ってくる風が心地よかった。
少年のぶちゃんが前を走って行く...
次第に成長し、学生となり青年となり壮年となって行く先生の
うしろ姿が闊達に自分の前を歩いて行く。


先生は37年の歳月をかけて『流転の海』を書き上げられ
今月末には最終巻が発刊になる。
自分ももうすぐ57歳 奇しくも先生の小説を読み始めて37年になるのだ。
前を歩く先生の姿を追いながら、
ああ、この人についてきて本当によかったなと思う。
自分と先生の間には細い一本の道があり
傍らには堂島川の真っ暗な水面が続いている。


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真っ暗な水の底に潜るような歳月は幾度もあったが
闇のなかでも灯火を求めて先生の書かれた言葉を読んできた。
そして今はこうして這い上がることができたのだ。


リーガロイヤルホテルが左に見える。
2006年11月19日 ここでトークショーがあった。
ずっとお慕いしてきた先生に初めてお会いできる機会を得て
三重の単身赴任先から車で駆けつけた。
案内された席は、舞台に一番近い円卓の舞台に向いた中央の席だった。
はじめて目にする先生のお姿は、思ったとおりの柔和な笑みをたたえた
深い眼をした紳士であった。
いままでの思いの丈を手紙に書いて受付に託した。
2週間後にまさかと思っていたご返事をいただき、
そして2年後に再びお手紙をいただいた。
数えきれないファンの一人に過ぎない自分に
真心のこもったお便りであった。
二度目の不意のお手紙をいただいたのは
まさに泥沼の中でもがき苦しんでいた時であった。
本当の慈悲というのは、相手が見えなくても見通してしまうのかと驚嘆した。
そこからすぐに良くなるわけではなかったが
どんなに突き落されるようなことがあっても
そのお手紙を何度も何度も読み返して、
遂には克服することができたのだった。


先生は振り向かれることもなく同じ歩調で歩いて行く。
もう過去のことはいいではないかと、仰っているように思える。
先生も既に新しい小説を書き続けておられるのだ。
手すりにもたれて波も立たない静かな堂島川の流れを覗き込む。
あのお化け鯉は、きっとまだこの水底に潜んでいるのだ。
この川もまたいのちのようだなと思う。
あらゆる汚濁も呑みこんで、光も闇も映しこんで流れていく...
やがて海へと注ぎ込んでいくのだ。


阪神高速をくぐり川風に微かに潮の匂いが混じったと思うと
向うに船津橋のアーチが見える。
湊橋を渡って記念碑の前に立つ。
今日からまた一歩前に踏み出すのだ...
石碑に一礼して「先生 ありがとうございました」と呟く。


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そして、昭和橋・端立蔵橋・船津橋と巡り
中央卸売市場の前を歩いて野田駅へと向かった。


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10月31日 『流転の海』第9部「野の春」刊行イベント@紀伊國屋ホール
受付にお祝いのお手紙
東京からお荷物を増やしては失礼と思い、薔薇の花一本添えて…
小川洋子さんとの対談を終えて舞台からさがる際
先生が視線を客席に走らせて、私を見つけてくださり
こちらに指をさされて、にっこりと笑顔を向けてくださる。
ありがたきご慈愛に感極まる。


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