白梅の祈り

光の気配を感じて目を覚ますと、わたしは満開の梅の花の園におりました。
冷たく湿った大気を覆うように、飴色の雲が空一面にひろがっています。
頬に小さな雫がひとつ…わたしは夢のなかで泣いていたのかしら…
ずっと一緒にいたはずのあなたが見当たりません。
私が眠っている間に、どこかへ旅に出られたのかしら…
雨の音を聴きながら眠ってしまったのは昨夜のことのような気もするし、
途方もなく長い長い時間だったような気もします。
なにか、温かなおおきなものに包み込まれているような…そんな眠りでした。
これは夢なのかしら…
それともわたしは生まれ変わったのかしら…
生きていることも、死んでいることも、長遠な宇宙の営みからみたら、
きっと、さざ波がたつようなできごとですもの。
生死生死生死生死…広大な宇宙のなかを遍歴しながら流れてゆくのだから
こんなきれいなところに生まれたのだとしたら、とてもしあわせなことです。

見えないけれど、なぜかあなたの気配を感じます。
いったいどこにいらっしゃるのかしら…
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        *

厚い雲の上面を朱く染めながら太陽が西方に去っていったあと
俺は、月の蒼い光がそのうえを這っていくのを見上げていた。
突然重力を感じて、雲のなかに引きずり込まれる。
激しい気流にもまれながら、どこをどれだけ浮遊したのか…
俺は光も届かぬ漆黒の闇のなかに溶け込んでいった。

不意に柔らかなものに抱きとめられるようにして、意識がもどる。
どれほどの時が経ったのだろう…
あたりは暗く星も見えない。
ただ闇の中で甘やかな香りが漂っていた。
何故かどこかで嗅いだことのある懐かしい匂いが…
あの大きな空のどこかから、この一点に向かって落ちてきたのかな…
不思議とそんな気がした。
ああ、東天が白んできた。まもなく夜が明ける。

        *

あたりはまだ枯野で色もなく、空気も冷たいけれど
頬のうえのしずくが、わたしのいのちを潤していくようです。
虚空から不意にしぼりだされたような…一滴のいのち
頬に触れる懐かしいその感触… どこかでお逢いしたような…

        *

道の駅に立っていた案内の老人に、早咲きの桜が咲き始めたことを聞き
道を教えてもらってここに来た。

駐車場に車を停めて、濡れたアスファルトの道を歩き始める。
畑の隅に植えられた白梅が、いっせいに花を開いていた。
もっと暖かくなってから咲けばよいものを… 
春を待ちわびるすべてのものに、希望をもたらすために
冬の間に樹皮の下でまもってきたいのちをいっせいに放つその健気な花をみて
胸をつかれる
もうすぐ春がくる… もう少し耐えろ… もう少し頑張れ…
そう言われているように感じる。
そう思いながら頑張ってきたけれど、心は晴れないままに8回目の春が巡ってきた。
人生はなんと長く辛いのだろう…

       *

初老の男の人がひとりで歩いてきました。
青白い額と眉間には深い皺が刻まれて、悲しそうな顔をしています。
何をそんなに苦しんでいるのでしょうか…
こちらを見上げて少し潤んだようなその瞳に
私は声をかけました。
もう少し…負けないで歩いてと…
本当の春は、あなたのいのちのなかにあるのよ…と
そして、とぼとぼと立ち去ってゆく後ろ姿に祈りました。

       *

雲の色は少しだけ明るくなったようであったが、青空は欠片もなかった。
自分のこころそのものだな。
トンネルに入ると、その空さえも消え
薄暗い闇のなかで、自分の湿った足音だけが響いていた。
足元に気を取られて歩くうちに前方から光が射した。
目をあげると、闇のなかにぽっかり空いた穴の向こうで
まるで額に飾られたように満開の桜が咲いていたのだった。
僕は思わず ああと声をあげた。
誰かがここに呼んでくれたのかな…
冬を越えるからこそ花は美しく
深い闇があるからこそ、いのちは美しいのだと…
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       *

あの方は、まるで違った人のように白いお顔を紅潮させて帰って行かれました。
私の願いが叶ったのなら嬉しいわ。

まわりでは、とめどなく生死が繰り返されてゆきます。
あるものはつぼみを膨らませ、あるものは散ってゆきます。
私もあと幾日かすれば散ってゆくのでしょう。
でも、ちょっとも怖くも悲しくもはないわ。
少し眠ってまた、どこかで目を覚ますのでしょう。
あなたはどこにいらしったのでしょうか
わからなくてもいいの
きっと、生まれても生まれても
いつも傍に生まれてこられるに決まっていますもの。

今はここで精一杯に…使命のままに…
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