雪国に生きる…井山計一さんのこと1

その日、僕はしんしんと降る雪のなかを行ったり来たりしながら
三階建ての旧いビルの前で「ケルン」が開くのを待っていた。
厚い雲に覆われていた空は昼から薄暗かったが、
日没の時間を過ぎて、街灯のまばらな街は一気に闇に包まれていった。

f:id:mui_caliente:20190212100319j:plain

映画で見たシーンでは、井山さんが杖を突きながらゆっくり階段を下りてきて
店に入ってぽっと明かりが灯るのだ。

痺れるような冷気は、ダウンジャケットの中までじわじわとしみ込んでくる。
寒さに耐えきれなくなって、近くの古びたスーパーマーケットに入り
ペットボトルのお茶を一本買って、手を温めるてからごくりと飲む。
吐息が、街灯の下で白くひろがって消えていく。
混んでいたらカウンターに座れないと思って、開店30分前に店の前に来たのだけれど
開店時間を一時間過ぎても、店は開く気配もなかった。

昼間は息子さんがそこで喫茶店をしているので、店が開いているのを確認しに来て
コーヒーを飲みながら「映画を観て、来ました」といったのだが
「ああそうですか」と迷惑そうに答えただけで、そのあとは声もかけられなかった。
休みなら言ってくれてもよさそうなものだけれど…

7時を過ぎたばかりなのに町全体が暗く、人影もほとんどない。
3階がお住まいなことは映画で見て知っていたので、薄暗い電球が灯っているのを見上げて
体調がお悪いのだろうかと思いながら、諦めきれずにさらに待った。
2時間ちかく経って、とうとう諦めたころにはすっかり全身が冷え切って、関節という関節の震えが止まらなくなっていた。
店を探す気にもなれず、向かいにあった安普請の屋台村の安そうなバーに入る。

東北人らしい色白の若い雇われマスターは、20代で子供が四人いて
その子たちを養うために、昼はサラリーマンをして夜もここで働いているという。
今時こんな青年もいるのだな…
「今日は静かな雪ですね…いつもは海からの風が強くて、ここらでは雪は横に降ります」

「マスターもお歳ですからね。このところ休みが多いようですね」
『ケルン』はこの辺りでは有名だけれど、彼は行ったことはないという…
ぎりぎりの生活ではバーなんて行く余裕はないのだろうな。
しかし、子供たちの話をするときの彼の目は とても輝いている。
この青年と出会ったのも縁だな…
人工的な味のカクテルを3杯飲んで、その青年としばらく話して店を出た。
『ケルン』はとうとう開かなかった。


井山さんのことを知ったのは、まったくの偶然のことであった。
去年(2018年)の年末の仕事納めのあと一人で飲みたくなって
久しぶりに町田のバー『Soul Cocktail’s』に寄った。
店長のSさんと話をしているうちに、彼が思い出したように
それほどバーがお好きなら、是非観ていただきたい映画があると言われ
裏に行って持ってきた『YUKIGUNI』のパンフレットを手渡された。
日本で最高齢のバーテンダーですと…
年老いたバーテンダーが、カウンターに向かってカクテルグラスを差し出す姿には
何十年もこの世界で生きてきた人の、いぶし銀のような気品がにじみ出ていた。

f:id:mui_caliente:20200222110000j:plain
YUKIGUNI

日本最高齢の現役バーテンダー 井山計一(当時92歳)
1958年、寿屋(サントリーの前身)のコンペで彼が生み出したカクテル「雪国」は、
たちまち日本各地に広まり、スタンダードカクテルとして多くの人々に愛されてきた。
スタンダードカクテルを作るということが、どれほど至難であるかは想像もつかないが
生涯をかけてバーテンダーとして生きてこられたその人の指先に見入って
この方にお会いしたいと思った。


山形の日本海沿いの街 酒田
これまで一度も行ったことのない地域であったが、
偶然にも、11月に商社からの依頼でここにある工場にプレゼンをしに行ったばかりだった。
井山さんのお店の場所を調べると、その時泊まった宿から歩いて3分ほどの場所だった。

1月 渋谷の小さな映画館で映画は上映された。
雪のしんしんと降る酒田の街… 
店に温かな明かりが灯り、人々が三々五々と集まってくる。


大正15年、酒田で250年続く呉服屋に生まれた。
昭和18年、戦争中に高校を卒業。満州の会社に就職が決まっていたが、父親の友人の縁で東芝に就職を変更。
満州に行った仲間は、ほとんど帰ってこなかった。召集令状が届いたのは終戦の2日後…
昭和20年終戦直後、酒田に帰っていた井山さんを魅了したのは、進駐軍が楽しんでいた社交ダンスだった。
酒田でプロダンサーとして指導を始めたものの、パートナーが駆け落ちでいなくなってしまったことで挫折。
その後仙台に遊びに行っていたときに、キャバレーのバーテン募集の広告を見て面接を受けると
髪が薄かったせいで年かさに見られて合格。
バーテンダーになったのも、運命のいたずらのような経緯だった。
仙台・郡山と渡り歩いて、昭和30年酒田に戻って「ケルン」を開店する。
昭和32年、弟子のひとりの薦めでカクテルコンクールに応募 「雪国」が誕生する。
東北地区で3位だったにもかかわらず、全国大会で1位になり
スタンダードカクテルとして認められることになる…
それから60年、全国のいたるところで「雪国」は愛され続けてきたのだ。

「ケルン」は喫茶店で早朝から開店し、夕方からバーになる。
朝6時から夜10時過ぎまで、奥さんと二人で休むこともなく働いて働いて働き詰めた。
子供たちの世話は母親に任せ、めったに顔を合せなかったという。
ある意味、極端な夫婦だった。

それにしても酒田は、東京から来るにはどうにも不便なところである。
飛行機は数便あるが、新幹線だと在来線に乗り換えてさらに二時間…
めったに来れるところではない。

f:id:mui_caliente:20190212091419j:plain

f:id:mui_caliente:20190212114820j:plain

これだけ有名になれば、都会に店を出すこともできただろうに…
この小さな街で生涯を貫いた。

あるバーテンダーのレジェンドが
バーテンダーにとって一番大事なことは、そこに立ち続けることだ」と言ったとか…
いつ行っても、その人が静かなたたずまいでそこに立っている… 
今までお会いしてきたバーテンダーの何人かの顔が浮かぶ。

井山さんは、まさにそうして60年余
この日本の片隅の街であのカウンターに立ち続けてきたのだ。

f:id:mui_caliente:20200222110228j:plain

雪はいつしかやんでいたが
車もほとんど通らない道路には厚い雪が積もっていた。

雪を踏みしめて歩きながら
井山さんにお会いするためにだけにこの街に仕事ができたような気がして
春までにはまたここに来ようと思った。

f:id:mui_caliente:20190212221532j:plain


おまけ
前日の夜、新潟駅前で食べた魚
f:id:mui_caliente:20190211203207j:plain