川のように...

その川にかかる橋を渡るとき
視界に入ったその色に驚いて慌てて車を停めた。
なんという色だろう...
まるで顔料を流したような鮮やかなターコイズブルー

川沿いの木立に車を置いて
岩を伝って川岸に降りていった。

大きな岩のうえに立って川上の方を見ると
大きく湾曲した川が岩で砕けて飛沫を上げていた。
深い川底で乱流になった水は、湧きあがるように水面に噴き出し
そのまま川下へと圧し流されてゆく...
激しい水流で気泡までもが砕けて白濁し、透明度のない蒼になるのだ。
こんなに明るい陽射しのなかでも、悲しい色だなと思う。
悲しみを幾重にも重ねた色が、足元の水面で慟哭するように
激しく湧き上がっている。
自分はこんなにも激しく哭いたことはないなと思う。

手に掬った瞬間に消えてしまうその色は
やがて平坦な流れにもどると透明度を取り戻して
何事もなかったかのように下流に向っていく。


バラモンの家に生まれたシッダールタは、禁欲と思索と瞑想に励み
家を出て苦行者の後を追って、ありとあらゆる苦行を重ねる。
仏陀との出会いでおおいなるものを感じ取るが、そこからも去って...
やがて賢く美しいカマーラのもとで愛の歓びを学び、
カーワスマーミのもとで取引を学んで膨大な富を得た。
しかし...ある時、そのすべてを捨て去って森の中に戻るのである。

 シッダールタは森の中の大きな川にたどりついた。かつてまだ若かったころ、
仏陀の町からやって来て、渡し守に渡された、あの川だった。
この川のほとりにとまって、彼はためらいながらたたずんだ。
疲労と飢餓に彼は弱っていた。なんのためにさらに進まねばならなかったか。
いったいどこへ、いかなる目標に向って? いや、もはや目標は存在しなかった。
このすさんだ夢を残らず振い落し、気のぬけた酒を吐き出し、
みじめな恥ずべき生活を終らせてしまいたいという、
深い悩ましい切望よりほかには何も存在しなかった。

その緑の水に身を沈めようとした刹那、修業時代に聴いたある言葉を思い出して踏みとどまる。
そして彼の意識は転換して生き返ってゆく。

彼は死んだ。新しいシッダールタが眠りから目ざめた。
彼も老いゆくだろう。いつかは死なねばならぬだろう。
シッダールタははかなかった。すべての形ははかなかった。
しかし、きょう彼は若かった。子どもだった。若いシッダールタだった。
喜びに満ちていた。
 こんなふうに考え、微笑しながら自分の胃に耳を澄まし、
感謝の念をもってミツバチのつぶやきに聞き入った。
流れる川を朗らかに見つめた。水がこれほど快く思われたことはなかった。
移り行く水の声と比喩をこれほど強く美しく聞いたことはかつてなかった。
川は何か特別なことを、彼のまだ知らない何かを、まだ彼を待っている何かを、
彼に語っているように思われた。この川でシッダールタはおぼれ死のうと思った。
その中で古い疲れた絶望したシッダールタはきょうおぼれ死んだ。
新しいシッダールタはこの流れる水に深い愛を感じ、
すぐにはここを離れまいと、心ひそかにきめた。

唄いながら常に下ってゆく川の声を聴き、そこにいのちの姿を見出したのだ。
そして渡し守ヴァスデーヴァの元に身を置いて、共に生きるようになる。


ヘッセの代表作『シッダールタ』の場面である。
川はあらゆるものを受け入れ、あらゆるものを内包し、そして留まることなく流れている。
生きることは川にどこか似ている。
決められた道を常に下りながら死へと向かって流れ続けている。
できることなら、清らかな流れでありたい。
清らかであるためには、清濁を呑みこんで尚それを浄化するだけの覚悟がなければならぬ。
元々出来の悪い宿命であるのに、そこに来て数知れぬ失敗を繰り返し、
いくつもの落とし穴に堕ちながら河口の見えるところまで流れてきてしまった。
自分はいまどんな色なのだろうか...どれほど濁ってしまったのか...
心して心して、いのちを澄ませていかなければならない。
そのためには、この川のように、もっともっと悲しみを重ねなければならないだろう
そして激しく闘い続けなければならないだろう
緩やかに流れていれば澱んで濁って行くしかないのだ。


そしていつか川辺に咲く花を潤していけるだけの豊かさを育んでいくのだ。


美しい美しい川を眺めながら思い浮かべた内なる情景


おまけ
「モネの池」