越後の空には、5月の眩い光があふれていた。
夕方までに岡崎に行けばよいので、急ぐことはなく
国道117号線で飯山方面に向かって、そこから上信越道・中央道で行くことにした。
5年前に友人と訪れた越後妻有を通るので、あの景色を見て行こうと思い、
早朝に十日町の宿を出た。
あの日は、友人のKと先輩のNさんと3人で大地の芸術祭を観に来たのだった。
横浜から日帰りの旅だった。
あの頃Kのやっていたビジネスは、時代の流れと大手の参入でうまくいなかくなり
店を閉めた。友人との集まりも何度もやった、思い出多き場所だった。
引っ越しは、彼に頼まれて2人でやった。
そういえば、そこに入居したときも荷物を運んだな…
開店の前にも、最初に招待してもらって料理をふるまってもらい
最後の日に看板を下ろす日にも立ち会ったのだった。
彼は、一流の料理人であったが、時代に翻弄され、人に翻弄され…
口には一言も出さないが、思うに任せぬ人生を生きてきた。
自分もまた転職転職の末に泥のような会社に入って、すでに8年になろうとしていた。
高校生で出会った頃には、こんな人生になろうとは微塵も思わなかったが…
あの日の楽しい場面を思い起こしながら
新緑の美人林を歩き、そこから星峠へと向かった。
前回は7月だったので、青々と伸びた稲はそろそろ穂をつける頃だったが
谷に向かって細く長く伸びている棚田には、田植え前の水が張られていた。
5月の明るい陽射しの下で、それは自分の足元から延々と続く泥の沼のように見えた。
タイミングが悪かったかな…
いつか見た、夕焼けに染まる棚田は美しかったけれど
あんまりきれいなものではないな。
そう思って車に戻ろうとしたとき、
流れる雲が太陽の陽射しを隠した。
棚田は一瞬にして水鏡に変じて、空よりもなお蒼い群青の空がそこに広がっていった。
漣に滲んだ雲が、その空のなかをゆっくりと流れていく。
ああ、なんと美しい風景だろう…
泥水は何も変わったわけではなく、光の反射にばかされているに過ぎないのだけれど…
それでも、ばかされた心は透き通っていくような気がする。
幸福といい不幸といっても、所詮ばかされることなのかもしれないな。
雲が通り抜けるとまた泥に戻り
そしてまた流れる雲が影をつくると、足元に青空が現れる。
空を見上げる。
大きな雲が流れ去る前に、この美しい風景を目に焼き付けて
そして車に乗り込んだ。
窓外を過ぎてゆく新緑の信濃の風景を眺めながら、Kのことを想う。
自分はいつも嘆いてばかりだけれど、
彼はそれこそ山あり谷ありの人生を、黙々と受け入れているように思える。
懐が深いのだな…
もしかしたら、泥水のなかに青空を見出す術を知っているのかしら…
千曲川の畔に車を停めて、美しい春の野山を眺めていると、
大きな雲が山肌に落とした影が、巨大な生き物のようにゆっくりと通り過ぎていった。
流雲 竹内てるよ
雲がゆく
秋 十一月の青空よ雲はたたずまい
流れ又たたずまい
たやすく 私の部屋の光をさえぎる私は静かに
光が再び来るのを待つ
光からへだたれたこの地隅に風は蕭々と吹くので
私は毛布を引上げ
じっと光の来るのを待つああ待つということは
何とたのしいことであろう
運命が
その身の上に幸せず
暗くみじめなみちをゆくときは
人は行い正しく時を待たねばならない
待つということは
自らを破ることではない
内に静かに充されつつ育つことだ