西浦海岸の夕暮れ

西陽に照らされた錆色の街並みに導かれるままに 僕はその海岸に向って車を走らせていった。 街並みが切れて港に出ると、 帆を降ろしたヨットのマストの間にすでに春の太陽は沈み始めていた。 鳥たちは獲物を追うのをやめて、養殖網の竿の上で羽を休め 仕事帰…

薔薇園にて

幾重にも重ねた花びらに秘め事を抱いて、その花は咲いていた。 僕はうな垂れる花にそっと手を差し伸べる。 曇り空の青島海岸... ふらりと入った薔薇園に人影はなく 椰子の並木のシルエットの向うで、いつもより少しくすんだ日向灘に白い波頭が浮かんでは消え…

幻の光

峠越えのトンネルを抜けて長い下り坂にかかると、霧のような細かい雨が降りはじめた。カーテンの襞のように折り重なりながら降ってゆく雨のむこうで左右に迫る山々の青葉も、狭い空を覆う雲も、次第に光を失っていった。 山が切れて灰色に霞んだ水平線が見え…

君の悲しみが美しいから...

「うちの桜を撮ってくださって、ありがとうございます」背後から突然声をかけられて、はっとした。振り向くと、小柄なおばあさんが微笑みながらそこに立っていた。 うちの桜と言ったよな...もしかして人の敷地に入ってしまったか...覗いていたファインダーか…

野口謙蔵『冬沼の鯉』

天に向かって差し上げた翅が、微かな春の風に震えていた。 七年の眠りから醒めた蝶は、渾身の力で翅をひろげたが 飛び立つ刹那に花に化身した。 春の光を吸い込んで咲き乱れる艶やかな花々の足元で カタクリの花は、まるで闇を吸って生きてきたかのように哀…

しだれ梅の園

糸のような細い雨が音もなく降りはじめた。 前を歩く白髪の夫婦と距離が縮まらぬよう、 土の匂いがたちのぼる小径をゆっくりと歩いていった。 何も言わずに連れてこられたのであろう... 少し下がって歩く夫人はどこか拗ねたようにうつむいている 門をくぐり…

春の気配

すこしだけゆるんだ寒気の底に、熟れた蝋梅の香りがたゆとうていた。くすんでしまった蝋梅の花を囲むように植えられた梅の木の細い枝先で小さな蕾がぽつりぽつりとほころびはじめていた。花びらも動かぬほどの微かな空気の揺らぎにしたがってすでに傾きはじ…

冬の漁師小屋

真っ暗な雲の下で、風に煽られて大きく膨れ上がった波が、碧くなったり黒くなったりしながら、幾重にも折り重なるように岸に押し寄せていた。 強烈な風に何度も圧し倒されそうになりながら、僕は浜辺に向ってゆっくり歩いていった。海から吹き上げてくる雪は…

雪をかく老婆

郵便局の赤い車が行ってしまうとそのまっすぐな雪の坂道は静寂に包まれていった。目の前も霞むほどの雪は風のない大気のなかをスローモーションのようにしかし止めどなく降り続けていた。 おわらの夜に人で埋め尽くされたこの石畳の坂道にいまは分厚い雪が降…

無名の悲しみ

降りしきる雪のなかでその花に出会った。深い緑の葉陰に身を隠すようにして、その白い椿は降りかかる雪よりもなお白い悲しみをまとって雪の降り積もる大地をじっとみつめていた。 午後から降り出した激しい雪は、瞬く間に街を包んでいった。車も人も途絶えた…

冬枯れのなかに

閉園間近の植物園の切符を買って門をくぐった。 閉門までにはお戻りくださいと言いながら、係員が怪訝な顔で半券を切る。 僕は、日没の迫った緩やかな坂を急ぎ足で登っていった。 名古屋での仕事を終えてホテルに向かう途中、東山動植物園の前を通り、不意に…

大事な友と...

伊勢湾岸道から桑名に入った入ったあたりから雨になり、員弁川に沿って北上していくうちに、霙が混じりはじめた。 仕事を終えて建物から出てくると、それは吹雪きとなって吹き荒れ、鈴鹿山脈の稜線さえも見えなくなっていた。 三重県の天気予報は晴れだった…

一級建築士合格の日に

低い欄干に両手をついて 橋の下を覗き込むと 昨日の雨で水嵩を増した清流が、岩で砕けていよいよ激しく流れていた。 もう正午になろうというのに、冬の低い陽射しは狭い川原の枯草を照らしはじめたばかりで川面には届かず 暗い川面のところどころに白波が立…

翡翠色の海

鉛色の空から落ち始めた霙が、灰緑の波の上に無数の波紋を残しながら海に溶けていった。 山から這い降りてきた痺れるほどの冷気が、海の吐息を白く曇らせる。 それは、海に溶け込むように死を迎えたいのちが、再び次の生へと蘇っていく姿のようであった。 冬…

紅葉を求めて...

西側の山の稜線から現れた雲が、薄墨が拡がるように青空を覆っていった。 不意に降りはじめた霙がフロントガラスにへばりついて、山々の紅葉を滲ませた。 ワイパーに拭われるごとにできる扇のなかの紅葉の絵巻は、コマ送りのように姿を変えながら、窓ガラス…

清流の畔

渓流から湧きあがった風が、川面にかかる木々の葉を漣のように揺らし 樹木のまわりで小さな渦をつくりながら、緑の大気のなかに溶けこんでいった。 水の音だけが強くなったり弱くなったりしながら、谷に響いていた。 国道から川沿いの脇道に折れて間もなく森…

立山杉

南へと流れて行く雲の大きな影が向かいの山々を覆う見事な錦繍の上を這って行った。雨上がりの空は澄み渡り、山は冷気に包まれていた。 水を含んだ落ち葉を踏みながら険しい林道に入っていく...美女平という地名に誘われて、紅葉を求めてここまで来てみたが…

漁師小屋

風は強く海は荒れていた。 幾重にもせり上がっては崩れていく白波は風に蹴散らされ 舞い上がった飛沫が海を煙らせていた。 飛び立とうとしては風に押し戻され 諦めて砂浜にうずくまる海猫たちを見おろすように 一羽の鳶が風を掴んで悠々と飛んでいた。 晩秋…

マツヨイグサ

8年ぶりにこの木の前に立った琵琶湖の朝... 薄墨を流したような空と湖面の間に一筋の雲がたなびき 比良の山々の藍い山並みが折り重なりながら雲のなかに溶けこんでいた。 湖の方から吹きつける西風に、ときおり混じる霧のような雨粒で 髪が濡れていった。 …

父に会いに...

父に会いに行った帰り道 ときたま通る川沿いの道にコスモスが咲いていた。 いつの間に咲いていたのか、もう終わりかけのようで 軸だけ残った細い茎が、花とともに風になびいていた。 春先に頭部に大きな怪我をして入院生活をしていた父は、 8月に退院してか…

闇の向うの光

魔に誑かされる時...人はきっとこんな気持ちになるのだろうと 僕はこの池の前に来るたびに思う。 魔と言うものは、決して恐ろしい顔などしていない。 水面に映る景色のあまりの美しさに正気を失い 現実と非現実の見境がつかなくなって、くらくらと眩暈がして…

南吉の彼岸花

まっすぐに天を指して伸び上った太い茎の上に 身をよじるほどの熱い想いが、炎のように咲いていた。 新美南吉という早逝の作家を偲んで植えられた無数の彼岸花の赤が 曲がりくねった川に沿って、どこまでも続いていた。 『ごん狐』の物語の哀しみが、不意に…

おわら風の盆

黄金色に染まった田園を渡ってきた風が山の斜面で不意に乱れて木々の枝を不規則に揺らしていた。 それでも空を覆う雲に動く気配はなく…井田川から立ちのぼるざわめきの向うで祭の衣装に身を包んだ踊り手が通りに姿を現した。 富山平野から飛騨高山へと続く山…

散りゆく蓮華

泣いている夢を見ていて目が覚めました。何故泣いていたのかは覚えておりません。それでも、微かな胸の痛みと頬に涙がつたった跡が残っているのをみると本当に泣いていたようでございます。 下を覗いてみたら葉っぱの上に、もう白くなってしまったわたしの花…

ひまわりの祈り

丘を越えてなだらかな下り坂に入ると、国道の左手に広大なひまわり畑が現れた。 空を覆う雲の上を昇りゆく太陽の、微かな気配を追うように ひまわりの群は、うなじを傾けたまま東を向いて弱々しく立っていた。 時おり吹いてくる生暖かい南風の向うには太平洋…

花を拾う

夕暮れとともに、渾身の力をこめて開いた五弁の花のその先に こじれた運命の糸のように絡まった繊維が、ほどけるようにしてひろがっていった。 陽は既に落ちていたが、水分を含んだ重い熱気は、 草いきれの残滓とともに沈殿物のようにいつまでもそこに漂って…

苦海浄土

不知火というどこか妖しげな名前には似つかわしくないほど、蒼い海だった。干潟にできた まだらな水盤の上を、真っ白な雲がまだらのままゆっくりと流れ浅すぎて波になりきれない波紋が、幾重にも干潟に寄せては消えていった。 この海だったのか...子供の頃に…

常願寺川

寄せては返す波と揉みあい絡み合いながら おおいなる清流は、滔々と富山湾へと流れ込んでいった。 6月の重く湿った風にざわつく常願寺川の河口に夕暮れが迫っていた。 防波堤とテトラポットで固められてしまった富山湾の海岸線の そこだけ人工物の途切れるこ…

つきのひかり

夜の海を見ようと思ってカーテンを開けると漆黒の海の上に蒼い月がぽっかりと浮かんでいた。海に落ちた月影は、漣の上で煌きながら反射して三河湾を仄明るく包んでいた。 海辺の丘の上に建つ古びたリゾートホテル...部屋の灯りを消して、ベランダに出る。手…

幸福の赤い実

その人の微笑みは、白梅の蕾がふわりと開いたような匂いがした。 テーブルの隅の席にちょこんと座って、静かにしているお母様に Sさんは優しい眼差しで話しかける。 何も言わないけれど、ときたまその笑みがふわりと浮かぶ。 なんとしあわせな光景であろう…