いつの間にか空一面に広がった雲の重さに背を押されるように
僕は急ぎ足で海岸通りを歩いていた。
頬のうえに雨粒がひとつ…
ふと立ち止まって天を見上げる。
網膜に映った蒼鼠色の空が、そのまま胸中にひろがっていった。
丘の上の公園の5月の花に逢いに出かけてきた。
地下鉄に乗るまでの青空が、地上に出たらもうそこにはなかった。
晴れるはずだったのに… そう呟いた瞬間に
「はずだったのに…」ばかりの人生が思い返されてため息をついてみたが
他に行く場所もなく、しかたなくまた歩き出す。
しかし、雨はそれきり落ちてはこなかった。
丘の上へと続く坂道の大きな樹々はいっせいに芽吹き
湿った大気のなかで青葉の呼気がたゆたうていた。
誰かの体温がのこるベンチに腰かけて、
胸にたまった灰色の息をゆっくりと吐き出す。
入れ替わりに吸い込んだ若葉の香りが肺腑にしみ込んでゆくのを感じながら
ベンチに背を持たせかけて芽吹く木々のこずえを見上げる。
ふと、坂道の上の方からガラガラという音が近づいてくると
母親に手を引かれた男の子の右手に握られた背丈ほどのビニール傘の先が
歩道の上で引きずられながら目の前を通り過ぎていった。
拗ねたような少年のその後ろ姿は、なぜか遠い過去の自分の姿のように思えた。
ガラガラという傘の音は、やがて木立のむこうに消えていった。
僕はゆっくりと立ち上がって、丘の上へと向かった。
果たして、そこにはたくさんの花が咲いていた。
陽射しのない曇った空を、それでもまっすぐに見上げて
いまこの瞬間を愛おしむように、静かにそして気高く咲いていた。
あの母子も、この花を見たのだろうか…
幼い頃、母に手を引かれ野に出かけた日を想う。
母が何かの歌をくちずさみながら、花を摘んでくれた。
母は若く美しかった。
母はすっかり年老いてしまったが、
季節ごと、団地の庭で自分で育てている花手折って
家に飾りなさいと持たせてくれる。
そんなことを想いながら、色鮮やかな花々を観てあるく。
明るい春の陽射しよりも、曇り空を透かして届く柔らかな光こそが
彼女らを最も美しく見せるのだと、初めて知ったような気がする。
いままで、陽ざしの眩しさで目がくらんで見えなかったものが見えた気がした。
星が宇宙の闇のなかから生まれるように
生命というものが、母胎に宿り、あるいは種子に宿って地上に姿を現すように
すべては昏い闇のなかから生まれ出ずる。
光そのものも、もしかしたら闇のなかから生まれるのではないか…
ふと、足元に気配を感じて、うっそうと茂る葉の影に目をやる。
そこには、息をひそめるようにして真っ白な花が咲いていた。
悲しみにうなだれるようなその後ろ姿は、
腕に抱いた我が子を見つめる母の悲しみのようであった。
この花だけではない。
ここに咲くすべての花が、それぞれの悲しみを抱いて咲いているように思えた。
この世界は、悲しみを抱き、悲しみを生きる人々によってささえられている。
悲しみを昇華して美しく咲くのだ。
花も人も…
曇り空の下で汽笛が響いてきえていった。