月山

庄内平野を渡っていく風が、田んぼに積もった粉雪を巻き上げて
無数の渦を作りながら、乾いたアスファルトのうえを横切っていった。
午後になって、気温はやっと零度を超えたが
強風にあおられた細かい氷の粒は砂嵐のように襲いかかってきて
顔じゅうに突き刺さり、化繊のコートの生地の表面でぱちぱちと弾けた。

蒼い雪景色の彼方に見える月山の、牛の背のような頂だけが
午後の太陽に照らされて眩しく輝いていた。
『月山』の冒頭のあの情景を想い浮かべながら
引き寄せられるようにして、僕は車に乗り込み月山に向けて走りはじめた。
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 ながく庄内平野を転々としながらも、
わたしはその裏ともいうべき肘折の渓谷にわけ入るまで、
月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。
そのときは、折からの豪雪で、危く行き倒れになるところを助けられ、
からくも目ざす渓谷に辿りついたのですが、彼方に白く輝くまどかな山があり、
この世ならぬ月の出を目のあたりにしたようで、
かえってこれがあの月山だとは気さえつかずにいたのです。
しかも、この渓谷がすでに月山であるのに、
月山がなお彼方に月のように見えるのを不思議に思ったばかりでありません。
これからも月山は、渓谷の彼方につねにまどかな姿を見せ、
いつとはなくまどかに拡がる雪のスロープに導くと言うのを
ほとんど夢心地で聞いたのです。
      森敦『月山』

月山・鳥海山 (文春文庫)

月山・鳥海山 (文春文庫)


小説の時代とは違って、道は整備されていたが
月山に近づくにつれて空は白くなり、いつしか雪が舞い始め、
やがて月山がどこにあるのかさえ、わからなくなってしまった。

月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、
本然のすがたを見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを
語ろうとしないのです。
月山が古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、
死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、
そのいかなるものかを覗わせようとはせず、
ひとたび覗えば語ることを許されぬ、
死のたくらみめいたものを感じさせるためかもしれません。
    (前掲書)

ナビだけを頼りに、『月山』の舞台になったその寺に向って急な坂道を登っていく。
道が細くなっていったその先で、
一棟だけ残っていた大きな木造の廃屋が雪に潰されてひしゃげていた。
世間と遮断された山のなかで密造酒をつくり、
行き倒れになった旅人の死体の内臓を抜いて燻してミイラをつくっていたというその部落は
消滅して厚い雪の下に眠っていた。
廃屋のさらに奥には、小説に描かれていたとおりの雪囲いをされた注連寺の
巨大な本堂が雪のなかで黒々と佇んでいた。

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引き戸の隙間から、住職もいないという寺の中を恐る恐る覗き込むと
人の気配に気が付いたのか、案内人の老婆が入るようにと促す。
敷居をまたぐと、何故か外よりも寒いような気がして背筋がぞっとする。
畳のじっとりとした冷たさが足の裏にねばりつく。
この世ならぬ空気が胸を圧迫し、ここに踏み入れてしまったことを後悔した。


『月山』を読んできましたと言うと老婆は頷いたが
「あげな難しい小説はオラにはわがんねェがの...」と言うと
何十年も繰り返してきたのであろう決まり文句の寺の案内を
イントネーションの不自然な標準語で始める。
この老婆までもが、この世ならぬ生き物のように見えてきた。

老婆に導かれるままに本堂に入ると、
その隅の厨子のなかには、あの薄気味悪いミイラが仰々しい衣装を着せられて、
薄笑いを浮かべたような真っ黒な顔で座っている。
ここには五体もミイラがあるというのだから
旅人を燻してミイラを作ったという話も、作り話ではないような気がしてくる。
重苦しい空気に気分が悪くなり、老婆に挨拶をして外に出る。


本堂の階段を降りるとその奥には庫裡が建っている。
小説のなかで「わたし」が過ごしていたのは、あの二階の広い部屋の片隅か...
「わたし」は、朽ちた雨戸から粉雪の吹き込む部屋に障子を立て仕切りをつくり
そこに渡した細木に旧い祈祷簿を破っては貼りつけて作った小さな部屋であった。

それはもう廣野の中の小屋などという感じではなく、
なにか自分で紡いだ繭の中にでもいるようで、
こうして時を待つうちには、わたしもおのずと変成して、
どこかへ飛び立つときが来るような気がするのです。
 しかも、吹きは終夜吹いては吹き疲れ、明け方には寂まって、
やがていつ吹くともなく吹きはじめ、
夜にはいるにしたがって激しくなるのです。
たとえ吹いても、吹きつける吹きはサラサラとして障子を濡らすこともなく、
その障子も腰高の窓と廊下越しの部屋の敷居に立てられているので、
雨戸も開けていられるのです。
(中略)
どうやら今夜も月夜のようです。
わたしが独鈷ノ山で見たこれらの渓谷をつくる山々や、
彼方に聳えて臥した牛のように横たわる月山も、
おぼろげながら吹きの上に銀煉しに浮き立っているであろう。
そんなことを思っていると、わたし自身が吹きとともに吹いて来て、
吹いて行くような気もすれば、
もはやひとつの天地ともいうべき広大な山ふところが、
僅か八畳にも満たぬこの蚊帳の中にあるような気もするのですが、
眠りを誘う単調なまでの吹きのざわめきに、うつらうつらして来たようです。
しかし、これもひとり繭の中にある者の、
いわば冬眠の夢といったものかもしれません。
 (前掲書)

吹き(吹雪)とともに吹いて来て吹いてゆく... 
生きて死ぬとはそういうものなのかもしれない。
繭のなかで蚕が見ると言う天の夢のように、儚くよるべなく...
粉雪の一粒になった自分が、天から落ちて吹きに吹かれるままに谷を渡り
そして、見も知らぬ場所に落ちて行く姿を想いうかべる。

空はますます白く濁り
月山がどの方向にあるのかさえもわからなくなってしまった。
死は彼方にあるようにも思えたし、足元にあるようにも思えた。
月山の上にのぼる月が観たいと思った。




おまけ
遠ざかって再び姿を現した月山
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肘折の谷で食べた蕎麦
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