倒木

長く尾を引くため息のような稜線の向こうに
雲で輪郭の滲んだ太陽が静かに迫っていた。
陽光は朱くなりきれずに雲のなかに力なく散乱し
空を淡い鬱金に染め、そこからこぼれた光の粒は
湖面の漣の上に散らばって銀色の残像を残して沈んでいった。


早朝に小樽を発って、積丹半島の海岸沿いの道を走ってきた。


海の群青はどこまでも深く、こんな色の海を見慣れない僕には
なにか恐ろしいもののように見えて、車を停めてゆっくる散策する気分にもなれず
一気に半島を一周して、岩内の街に入ったのだった。
水上勉の『飢餓海峡』の物語は、この街から始まったのだったな…
ひび割れたアスファルト…色褪せたトタン屋根…
灰色がかった街中で小さな寿司屋を見つけて暖簾をくぐる。
地元の人らしい客の会話を聴きながら
昨日から誰とも話していないなと思うが
酒ものまずに知らない人と話すのは気が引けて、
黙って寿司を味わい、大将に礼を言って店を出た。

岩内から先も海沿いを走る予定だったが、
気が変わって、函館本線に沿って函館に向かうことにした。
なんの目的もない無計画な旅
川面に落ちた木の葉のようにただ流されてゆく自分そのものだな。
美しい景色も、すれ違った人々も、さまざまな想いも…
ただ過去へ過去へと流れ去ってゆく


羊蹄山の西側を通って太平洋側に出て、また海沿いを南へ…
距離感がつかめず、ほとんど寄り道もせずに走ってきたのであまり感動するようなこともなく、
せっかくの北海道の旅は味気なく終わろうとしていた。
時間の無駄遣いだったかな…などと思いながら
ふと視界に入った「大沼」という看板の文字を見て県道を東にそれた。

湖の東岸に回り込んで道路脇の駐車場に車を停める。
水芭蕉の咲く湿地の縁を歩き、水辺に根を浸す木々の間を抜けて…
そしてここにたどり着いたのだった。
朱く染まる水面を思い描いて来たけれど
歩いているうちに雲の様子を見て今日は無理だなと悟った。

背の高い葦をかき分けて視界が開けたとき
水際に大きな木の枝が横たわっていることに気が付いた。
随分根元に近いところから折れたものだな…

湖面に立った漣が、その枝を微かに揺らしてそして
そのかたちのままの波紋となってひろがってゆく。
なんと静かな夕暮れだろう。
ひたひたと岸をうつ波の音以外には何も聴こえてこない。

微かに揺れるその枝先をぼんやりと見ながら
この枝が落ちた情景を思い浮かべる。
凍った湖に雪が降り積もって一面の雪原がひろがる。
降りしきる雪のなかで、木々はじっと立っている。
あたりはしんと静まり返っている。
突然、木が引き裂ける音がして凍った湖面の上にどざりと落ちる。
そしてまた静寂が戻ってくる。
倒れた枝の上にはまた雪が降り積もっていく…

木は
いつも
憶っている
旅立つ日のことを

ひとつところに根をおろし
身動きならず立ちながら

花をひらかせ 虫を誘い 風を誘い
結実をいそぎながら
そよいでいる
どこか遠くへ
どこか遠くへ

茨木のりこ『木は旅が好き』より

この木も夢見ていたのだろうか
空を見上げて
どこか遠くへ…どこか遠くへ…と


春が来て雪が融け、湖の氷も融けた。
その枝は半身を見ずに沈めていった。
彼のいのちは、もうそこには宿っていないのだろう。
しかし、彼が生きてきた痕跡だけははっきりと形となってそこに横たわっている。

どこか遠くへ… どこか遠くへ…
もっと高く… もっと大きく…
雨に打たれても、風に折られても、雪にのしかかられても
ひたすらに天だけを見つめて伸びてきたその証拠が…
想いはすべて天を指している。

ああそして、いまやっと自由になれたのだな
やっと想いが叶ったのだ。
いのちは虚空へ吸い込まれていったのか…それとも水に溶けていったのか…


太陽は山の向こうに沈み、灰色の空は少しずつ濃度を増していった。
空から降りて来た沈黙があたりを包んでいった。
そろそろ帰らなければ…暗くなり始めた足元を見て、枝に呼びかけた。

湿った土を踏んで歩き始めたとき
木立の向こうで突然電列車が鉄道を踏む音が響いてそして遠ざかっていった。