海岸沿いの道の右側に迫る山が不意に途切れて視界が開けた。
どうやら、庄内平野の南端に出たようだった。
眼の前で弓なりに伸びた海岸線の遥か先に、鳥海山が霞のなかに美しい稜線を広げていた。
それは、日本海から吹き上げて来る風がそのまま化身したような山であった。
遠くこれを望めば、鳥海山は雲に消えかつ現れながら、激しい気流の中にあって、
出羽を羽前と羽後に分かつ、富士に似た雄大な山裾を日本海へと曳いている。
ために、またの名を出羽富士とも呼ばれ、ときに無数の雲影がまだらになって山肌を這うに任せ、
泰然として動ぜざるもののようにも見えれば、寄せ来る雲に拮抗して、
徐々に海へと動いて行くように思われることがある。
(中略)
たんに標高からすれば、これほどの山は他にいくらでもあるという人があるかもしれない。
しかし鳥海山の標高はすでにあたりの高きによって立つ大方の山々のそれとは異なり、
日本海からただちに起こってみずからの高さで立つ、いわば比類のないそれであることを知らねばならぬ。
森敦『鳥海山』 初真桑
孤高…
倚りかからず、ひとり立てる姿
寂しくて、厳しくて…そして美しいものだな。
このまま鳥海山を眺めながら北上できるものと思っていたが、
国道はやがて海岸を離れて松林のなかに入り、そのまま海も山も見えなくなってしまった。
10kmあまりもある松林を抜けると間もなく酒田の市街地に入り、
緩やかな登りから下り勾配になったところで突然最上川が姿を現した。
そしてその向こうには、先程見た数倍の大きさの鳥海山が酒田の街並みを抱くようにそびえていた。
去年から三度も酒田に来ているというのに、鳥海山を見た記憶はなかったので
こんなに近くにあることに驚いた。
「鳥海山は遥かな月山と相俟って雨雲を呼び、おのれに近づこうとする者にみずからを隠そうとする…」
たしかそんなふうに書いてあったな。
小説のなかでは、それをもどき・だましというのだ。
自分も拒絶されていたのだろうか、この山に
一筋の雲が山頂を隠すようにたなびいている。
風に流れて動いているのに、いつまでもその場所から消えることがない。
いつでも雲を纏って姿をくらましてやろうという構えなのだろうか。
考えてみれば、自分の目に見えているもののうちいったい何が本当の姿で、何がもどき・だましなのか…
年を重ねるほどに見えてくるかと思われたことが益々判然としなくなり、
記憶に残る出来事も、出会ったはずの人々も、もしかしたら現実ではなかったのではないかと思えてくる。
科学の進歩によって解明されると思われたことが、いよいよ不可解になり
技術の進展によって豊かになると思われた社会は、益々格差を広げるとともに人間を愚かにしてきた。
緩やかに平和へと向かうと思われた世界は、気がつけば途方もなく深い闇のなかへと入り込んでしまったかに思える。
いまこんなにもはっきりと見える鳥海山も、明日になったら見えなくなっているのではないか…
*
午後から客先の工場に入って、長時間の打ち合わせ。現場の視察。
門を出たときには陽は大きく西に傾き、空は淡い藤色に染まり始めていた。
小説のなかに記された夕陽に染まる鳥海山の姿が脳裏に蘇る。
(背負い商いの老婆や、他の地方から行商に来た人々で賑わう蒸し暑い列車の中)
ふと気がつくと、深くよどんでたれこめた薄暗い雨雲の中に、
赤いものが浮かぶように漂っている。
「おや、あれは…」
思わずわたしがそう言うと、(中略)
(富山の薬売りの男が答える)
「雲ですよ、やっぱり」
(中略)
「雲?この雨雲があんなに高いですかね」
「しかし、なんだか動いているようじゃありまあせんか」
そういえば、そうとも言えないこともないが、除々ながらも動いていないはずのない雲が、
どんよりとして動くとも見えないので、それが動いているように見えるのかもしれぬ。
そう思って見なおすと、果たして雲がゆるゆると動き出すのだが。
それにしてもこの雨のなかにどうして赤く見えるのか。
「こぅッ!あれだば鳥海山の頂だちゃァ。こげだ雨に、夕焼けの鳥海山が見えるとは、おぼけたのう」
富山はまたもとの方言になった。ばさまにも見せたかったのであろう。
鳥海山の頂はいよいよ赤く染まって、雨の中からハッキリと見えはじめた。
忘れられていたことが、記憶の底から不意に現れてきたようなこの光景が、
はからずもわたしに、わたしがはじめて吹浦に来たときのことを思い出させた。
(中略)
わたしはたとえようもなく美しい夕焼けに出会ったのである。
(前掲書)
夕焼けが見たいと思った。
夕陽に染まる鳥海山を、今日なら見れるのではないか…
慌てて地図で高台を探すと、車に飛び乗った。
*
風が強く吹いていた。
5月だというのに肌を射すような冷たい風だった。
車を停めると、展望台への階段を登っていった。
振り返ると、そこには昼間見たよりもさらに近くに鳥海山の山頂が見えた。
庄内平野を渡ってくる海風は、斜面を駆け上がり乱流となり
花の散り終わった桜の葉を、ちぎれてしまうのではないかと思うほどに激しくはためかせていた。
凄まじい風のなかをゆるゆると落ちてゆく太陽は、次第に色を増していった。
やがて赫赫と燃え始めた太陽の光の雫が、地上の水面に雫を落とした瞬間に光が飛び散った。
龍のように大きくうねる最上川が
水を張られた広大な水田が
そして遥か遠くに横たわる日本海が
そして白く霞んでいた大気が
一斉に金色に染まっていった。
ゆらゆらと波立つ最上川の水面は、生きた龍の鱗のようであった。
五月雨をあつめて早し最上川
か…
芭蕉も、この季節にここに来たのだな。
何処に居ようとも、思うがままに花も月も胸の裡に現すことができる。
そんな芭蕉は、どんな鳥海山を見たのだろうか…
日本海に沈む夕陽をどんなふうに感じたのであろうか…
考えてみれば、もどき、だましといっても、外から訪れるものではなく
それぞれのいのちの裡から湧き上がるものかもしれない。
何を望み何を願うのか… その心の動きにしたがって変化していくのかな
いまこうしてここに立っていられるもの、そんな願いから生じたもどき、だましなのかもしれない。
美しいものに出会えるようにという…
太陽は加速度的に堕ちていき
瞬く間に金色は空に吸い込まれて水面は光を失って、空の低いところが朱が残った。
ふと鳥海山の方を振り返ると
あの一筋の雲が大きく膨らんで、いままさに山頂を覆い隠そうとしていた。
雲の腹は、鴇色に染まっていた。
僕は誰もいない展望台で、あわあわと夕闇に沈みゆく鳥海山を見ていた。
やがて消え入りそうな山頂の上に、星がひとつ輝いた。