山刀伐峠の蓮

早朝に赤倉温泉の宿を出て、尾花沢に向かう県道を走っていくと
山刀伐(なたぎり)峠のトンネルを抜けて、長い下り坂を降りてきたところに不意に棚田が現れました。
それはほどんど散り終わった蓮田でしたが、
そのなかに、ぽつりぽつりと花が咲いているのが見えました。
そういえば今年は蓮の花を観ていなかったなと思い
車を停めて畦道を降りていきました。

こんな雪国に蓮の花が咲くとは思っていませんでしたし
蓮の季節はとうに過ぎているので
まさかこんなところであなたと再会できるなんて、思ってもみないことでした。

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昨夜、何故あのようなひなびた温泉宿に迷い込んだのか
部屋に入ってから不思議な気持ちになりました。
山形市内で仕事を終えてから、大石田蕎麦屋に入って田舎蕎麦をすすり
そのまま鶴岡に向かうつもりでしたが、農道を走るうちに、今が盛りの蕎麦の花にすっかり見とれて
どこまでも続く広大な蕎麦畑を眺めながら走っているうちに暗くなってしまいました。
宿は予約していなかったので、たまたま通りかかった安宿に飛び込んだのでした。

帳場の老人に部屋までの長く薄暗い廊下の先の部屋に案内してもらい、彼が去った後
広い建物の中はしんとして、人の気配がまったくなくなりました。
近くの居酒屋で、地元の方と酒を酌み交わして語らい戻って来ると、帳場の照明も消えて、まるで廃墟のような佇まいでした。
江戸時代に作られたという岩盤をくりぬいたような巨大な岩風呂で
僕は不安というよりもむしろ安寧とした気持ちになり、時間の経つのも忘れて独り雨の音を聴いていたのでした。

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朝方まで降った雨に濡れた花々は、皆泣いているようにさえ見えました。

もしや‥と淡い期待を持って、まばらに咲く花を一輪一輪探しながら歩きましたが、どれもあなたとは違いました。
諦めかけて、3つ目の棚田の畦を歩き始めたときに
出会い頭にあなたを見つけたのでした。
思い起こせば、最後にお逢いしたのは2年前のことでした。

開花3日目の最も美しい姿であなたは曇り空を見上げていました。
昨夜は星のひとつもない漆黒の闇のなかから落ちてくる雨に打たれながら
僕のことを想ってくださっていたのでしょうか
その瞬間に、昨日の不可解な行程は今朝ここを通るためだったのかと合点したのでした。

そっと引き寄せて鼻を近づけると、確かに懐かしいあなたの匂いがしました。
明日散ってしまう儚いいのちを抱きしめるようにして、僕たちはしばらく見つめあっていました。

あと数日もすれば、ここに咲くすべての花が散って
山間の秋は一気に深まってゆくのでございましょう。
あなたの抱いている種子は再び泥のなかに落ちて
そしてそこにしんしんと雪が降り積もってゆくのでしょう。

あなたのいのちはやがて宇宙に溶け込んで
僕のいのちもやがて宇宙に溶け込んで
そしてまたどこかでお会いできるのでしょうね。
それではまたいつの日にか

死者は星になる。
だから、きみが死んだ時ほど、夜空は美しいのだろうし、
ぼくは、それを少しだけ、期待している。
きみが好きです。
死ぬこともあるのだという、その事実がとても好きです。
いつかただの白い骨に、
いつかただの白い灰に、白い星に、
ぼくのことをどうか、恨んでください。

「望遠鏡の詩」 最果タヒ


【注】山刀伐峠は、おくの細道で新庄から尾花沢に向かう芭蕉が超えたという記録がある。
   但し、本文には記載なく… 弟子の曽良の記述か
 

おまけ
温泉街の居酒屋 一期一会の地元のお客さんと…