住宅街の温泉

その温泉は、何十年も改装されたことのないような古びた南武線の駅から
何十年も風景の変わっていないような住宅街の中を歩いていった
マンションの谷間に、突然姿を現した。
工場跡地に建てたという質素な建物には、看板らしいものも照明もなく
知らなければ通り過ぎてしまうほどの存在感のなさであった。
高校時代からの友人K君が、近郊の温泉をいろいろ試して
その中で一番居心地が良いという温泉。
縄文天然温泉「志楽の湯」  http://www.shiraku.jp/
昨日、不意にさそわれて、暇だったので一緒に行くことに...


平日の昼間ということもあるが、人は少なく場内は驚くほど広い。
湯は、東京湾沿岸に多いフミン質と塩分の多いタイプであるが
塩素殺菌をしていないので、カルキ臭がしない。
風呂につかり、ビールを飲んで蕎麦を食べて...また風呂に入って...贅沢だな〜
昼から夕方まで、ゆっくり過ごした。


地元の駅についても、身体がなんだかぽかぽかして...
沈み始めた夕陽がきれいだったので、駅前のロッテリアに入って
染まりゆく空を眺めながら、コーヒーを一杯...
梶井基次郎の『檸檬』を開く。

梶井基次郎  (ちくま日本文学 28)

梶井基次郎 (ちくま日本文学 28)

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか(中略)
肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
 何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。(中略)
その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。

えたいのしれない不吉な塊...か...
以前読んだ時には実感のなかった言葉が、感覚となって胸に迫る。
31歳にして夭折した青年の言葉は、どこまでも純粋で美しい。
檸檬』と『冬の日』を読んでから日が沈んだ街をとぼとぼ帰る。
自分にとって幸福をもたらす檸檬は何だろうか...