水のかたち

一年半かけて進めてきた交渉は、打ちきりとなった。
会社の買収という、先方の一方的な都合と、前任者の不手際...
かかった分のお金はお支払しますと言われ、打ち合わせは20分で終了


予想していたとはいえ、やはりショックだった。
膨大な時間と労力をかけ、実験に実験を重ね、数多くの書類も作成してきた。
お金で精算するといっても、実費の一部にすぎないだろう...
会社に報告すれば、自分を疎ましく思っている連中から
誹りを受けることは、明らかなわけで...
やはり、すべてがうまくいかないようにできているのだろうか...
茫然として、工場内の長い通路を歩き、出門手続きをして外に出た。


いつもの道を走って戻ろうとして、ふと工場の前を流れる川の流れが視界に入った。
この川の上流には、何があるのだろう...
今まで20回近くも来ていて、気にならなかったことが、妙に気にかかった。
車をUターンさせて、上流へ向かった。


急な坂道は、川に沿って上へ上へと誘導していった。
対向車も来ない人影もない道を、ただ何かに憑かれたように走っていった。
キャンプ場受付という看板をかかげたログハウスで車を停めた。
川原に降りて行こうとして、思わず息を飲んだ。
そこには、これ以上透明にはできないだろうというくらいきれいな水が
岩の間をうねりながら流れていたのだった。






近づいてみると、水面の波紋も、川底の岩もはっきりと見える。
川は、絶えることなく滔々と流れていく。
何百年何千年...こうして流れ続けているのだろうか...


かたちを変えながら流れる、その水の流を眺めながら、
『水のかたち』(宮本輝)の場面を思い出す。
水は、どんなにかたちを変えようとも、水であることをやめない...


自分は自分だけの人生を生きてきたはずなのに
どこかで自分を見失い、自分でないものになろうとしていたのではないか...
水のように生きなければ...


清らかに 素直に たゆまず
あるいは激しく あるいは優しく
あらゆるものを包み込んで
いかに形を変えようとも、自分であることをやめない。


さらに上流を見たくなって、車を走らせる。
道は悪くなり、落石注意の看板が...
突然道端に現れた、巨大な水槽
地図には見当たらないが、水力発電所の調整池のようだ。
川からの激流が怒涛のように流れ込んでいる。


轟音を伴った恐ろしいような勢い...
しかし、泡が一瞬消えた部分は、深いマリンブルー...
深い水槽の水は静かに見える。
この川は日本屈指の急流で、水力発電所もいくつもあるようだ。


もう少し行くと、車は通行止めになっていたので、そこで引き返す。


森の出口に、野生の紫陽花が咲いていた。


富山市内に戻ったが、このまま帰る気がせず
かといって終電は早いので、自分でもう一泊して、富山にお別れの儀式...
『あ!イッセイ』には、サントス君が立っていた。
イタリアンを修行してから、この店に来たという。
酒や料理について、貪欲に学び、店の将来のビジョンも持っている
クレバーで好感のもてる青年だ。

ホッピーをたのみ、
今夜のあては、まず自慢の豚足..実は苦手だったのだが、
サントスが豚は鮮度...この豚足は生で食えるくらい新鮮ですと言うので
頼んでみると、思いっきり塊で出てくる。
恐るおそる食べれば...美味い! 豚足が美味しいと感じたのは初めてのこと
そして、豚のコメカミ ポテサラ 

彼と話しているうちに、次々にお客さんが来て、カウンターは満席に...
この店に来ると、必ず周囲の人と会話が始まる。
それはイッセイ氏が作ってきた、誰とでも仲良く飲むという雰囲気なのだ。


今夜は皆、二人組で来ていて、それぞれ初対面というなかで
いつの間にやら、皆で一緒に飲んでいる感じに...
都会の飲み屋では、ありえないことだ。

皆で記念撮影もして...
そのあと、お世話になったD氏も来たので、挨拶をして...
したたかに酔ったところで、独り店を出る。


街の灯りを映す、路面電車のレールを見ていて
またきっと、ここに来れるという気がした。





おまけ...
帰宅して開いた『水のかたち』
付箋を貼っていたページのうち二ヶ所だけ引用しておきます。ちょっと長いですが....

水のかたち(上) (水のかたち)水のかたち 下
主人公の志乃子の友人でジャズシンガーの沙知世の独白...
リンゴ牛というのは、早苗が川で拾った、牛の背中にリンゴが乗ったような形をした石

自分を、自分以上のものに見せようとはせず、自分以下のものに見せようともしない、
ということは至難の業だ。
人間はすぐにうぬぼれる。絶えず嫉妬する。他人の幸福や成功をねたんだり、そねんだりする。
自分の周りからいい人だと思われようとする。
どうして能勢志乃子という人には、それがないのだろう....。
私は、大井川の上流の、早苗ちゃんのおばあちゃんの家に泊めてもらって、
翌朝、白糸さんへ行ったときも、不思議な何かを見る思いで、志乃ちゃんと話をしていた。
白糸さんは、長い一本の管にあけた大小不揃いの穴からこぼれ落ちる、
壊れたシャワーのように流れ落ちていた。
 どこから来てどこへ行くのかわからない頼りない滝が
最初に当たる段差のところに志乃ちゃんがあのリンゴ牛を置いたとき、
私は妙な空想のなかにひきずり込まれていった。
 あの丸い石は、ここに置かれたときからリンゴ牛だったのだ。
落ちつづける水滴に穿たれて形を変えていったのではない。形を変えたのは水のほうだ。
水は流れて来て落ちて、一瞬リンゴ牛の形になって、すぐに別のものと同じ形に変わって、
浅い滝壷にいったん溜まり、水の道へと向かって行って、水の道の形になり、
水草の繁っているところでは水草の形になり、石と石とに挟まれた細い水路では水路の形になり...。
それなのに、水であることをやめない。
リンゴ牛にもならず、水草にもならず、水路そのものにもならず、
他のどんな形に変化しようとも、水であり続ける。
私は、この水のように歌いたい。歌えるようになりたい。
空想にひたりながら、私はそう思った。思いというよりも願いというほうが正しい。
それから私の歌は変わったのだ。誰にもわからない程度の変化だったが、変わったということは私にはわかった。
私は川を歌い、海を歌い、寒い冬を歌い、春の嵐を歌い、悲しい恋を歌い、つらい人生を歌い、
浮き立つ恋を歌い、自堕落な夜を歌い、寂しい雨を歌い、夜ふけにさまよう犬を歌った。
それらの形になって、水のように歌った。
いや、歌ったというよりも、そのように歌おうと心を定めたのだ。

「私ねェ、『心は巧(たく)みなる画師(えし)の如し』っていう言葉が凄く好きなの。
中学一年生になったとき、三好のおじさまから教えてもらったの。
それ以来、私のたったひとつの座右の銘でもあるし、願いを叶えるおまじないみたいにしてきたの。
だから、私は啓ちゃんが、ここで鋏と櫛を持って、架空の人の髪をカットしているのを見るのが好きなのよ」
志乃子は、自分の言葉が説教臭くならないように、気をつけながら、啓次郎にそう語りかけた。
啓次郎は、聞いているのか聞いていないのかわからないような表情でテレビをつけた。
「心は画師の如し、じゃないのよ。巧みなる、っていう言葉が付くのよ。
つまり、心に描いたとおりになっていくってことなのよ。
心には、そんな凄い力がある....。
だから不幸なことを思い描いちゃいけない。悲しいことを思い描いちゃいけない。
不吉なことを思い描いちゃいけない。
楽しいこと、嬉しいこと、幸福なことを、つねに心に思い描いていると、いつかそれが現実になる。
お伽噺みたいだけれど、これは不思議な真実だ...。
三好のおじさまはそう言ったわ。私の人生は『心は巧みなる画師の如し』という言葉で劇的に変わったって
中学一年生の私は興奮したの。
それなのに、ついさっきまで、その大事な言葉を、きれいさっぱり忘れてたのよ」

おまけのアルバム  

片貝川の情景

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