森の外には雨が降り出したようだった。
木立の隙間から見える田園も雪を被った立山も
シルクのヴェールに包まれていった。
冬でも枯れることのない沢杉の森は
雨を吸い込んでしっとりと膨らんでいくようだった。
鬱蒼と頭上を覆う木立の下には、まだ雨は落ちてこない。
湧水が溜まってできた澄み切った池は、雨の気配を感じているのか
息をひそめてその時を待っている。
あのとげとげした葉先で霧のような雨が水滴になって
やがて滴り落ちてくるその瞬間を...
僕はその畔に屈みこんで、黒い森を映す鏡のような水面を覗き込む。
年末から二月の前半にかけては、自分が手掛けてきた装置の納入設置が相次ぎ
息をつく暇もないまま一気に駆け抜けてきた。
終わってみれば達成感よりも疲弊感のほうがおおきくて
こんなことをして生きているということが、どうしようもない徒労に思えた。
ただ、この森に来たかった…
かつては黒部の海岸に沿って果てしなく拡がっていた湧水の森に...
人間の欲望に散々に痛めつけられてそのほとんどが伐採され
わずかに残ったその森はいま、人に守られながらひっそりと生きている。
ここに足を踏み入れると渇いたいのちが潤っていくのだ。
そして...
暗い水面のうえに最初の一滴がぽとりと落ちる。
真円の波紋がゆっくりと拡がっていく。
杉の葉の先で一滴の雫となった雨粒がいま
百年の眠りから醒めた立山の湧水のなかに静かに溶けて込んでゆく。
音に形があるのなら、こんなふうにひろがってゆくのだろうか...
鍵盤のうえに人差し指を置いた瞬間の哀しみが想いだされ
疼くような痛みが胸にひろがっていく。
二つ…三つ…そして、杉の葉先から無数の雨粒が落ち始める。
冷たい雨に打たれて、僕は慌てて傘を開く。
こんな雨を樹雨(きさめ)というのだったな…
なんとなく寂しい響きだ。
森が濡れそぼってゆく...
不規則に落ちてくる樹雨が、杉の足元にひろがる草木を濡らし苔に滲みて、大地を潤してゆく。
不規則にとめどなく水面を揺らす波紋は
強く弱く円を描いてはひろがり…そして消えてゆく。
エリック・サティ―の、よるべない短調の音階が
僕の脳髄のなかで流れ始める。
そんな音楽の瞬間を切り取ろうと、カメラを向けてシャッターを切り
ファインダーの中で静止したその波紋を見てはっとする。
ああ...いのちの姿ではないか...
生まれ落ちたいのちは、波紋をひろげながらそして生命の大海に溶けてゆく。
生死…生死…生死....。
無数の波紋は、遠く近く…それぞれの場所に生まれ
他のいのちの波紋と触れ合い、重なり合い、響きあいながらひろがってゆく
ああそして、重なり合おうと響きあおうとも、
最後までその円は形を変えることはないのだ...
孤独なものだな…
考えてみれば孤独とは....独り弧を描くと書くのだったな....
誰もいない森のなかで、背を丸めて水辺に屈みこむ自分の後ろ姿は
この一滴の雨粒のようなものかもしれない。
無数の生物が生死を繰り返す森のなかで
無数のいのちが立てる波紋に包まれながら
ささくれた自分のいのちが癒されてゆく。
降りやまぬ雨のなかで、サティ―はずっと響いている。
おまけ
富山の夜....
艶次郎は、独り飲み
そして
立飲みで出会った城野さんと...
ワインバーにも連れていってもらった。