花の降る午後

新神戸駅から北野の異人館街へ続く坂の途中にある
そのフレンチレストランに
息を切らしながら辿り着いたときは、
約束の時間を2分ほど過ぎていた。
築100年の洋館を改装した老舗のレストラン
「セントジョージ・ジャパン」
上品なクリーム色の壁に、庭の紅葉が映えていた。

 

フロントに現れた山高帽の似合う細身のギャルソンが、
重厚な木製の扉を開くと二人の若い女性がすでに席についていて、
「お久しぶりです」とあいさつを交わした。
一人は、この店のオーナーSさん そして、その友人のMさん

 

3月に神戸の暗いバーで隣に座った二人...
庭に向かった壁一面がガラス張りになっている明るい空間で
外の景色も霞んでしまうくらいの美しさに、思わず一歩引きそうに...

 

前回はお互いに、かなり酔っていたし、暗かったし...
FBでは、おちゃらけた写真ばかりなので、軽い気持ちでランチにお誘いしたが…
やっぱり場違いやんか…
でも
せっかくの機会なので…と開き直って...
ランチコースをいただきながら、楽しく過ごす。

 

料理は、どれも手が込んでいて、本当に美味しいし、食器も盛り付けも素晴らしい。
食が細いので少な目のコースでいいかと思ったが、フルコースを薦められて、いただくことに...

さといもとフォアグラのテリーヌ
さといものテリーヌというのは珍しい...ねっとりとした食感とフォアグラが素晴らしく合うのだ

じゃがいもの冷たいスープ 
なんとも言えないなめらかな舌触りと絶妙な温度 ジャガイモの香りがこんなに良いスープは初めて

金時鯛のソテー
金時鯛は、煮物 焼き物しか食べたことがなかったが...表面の食感と引き締まった身の味が美味い

ほろほろ鳥の...なんだっけ?
一週間ほど前、国産のほろほろ鳥を飼育している人がテレビに出ていて
その料理があまりにも美味しそうだったので、いつか食べてみたいと思っていたのだが
思わず、突然にかなってしまった。
クリームチーズを詰めた胸肉は、実にうまい!
上にのせられたつるむらさきとの相性もいいな〜

そして最後は美しいデザート。
しかし、気がつくと時間がなくなって、慌てて一気に食べてしまったのだが...

 

この料理とお店の雰囲気からは信じられないくらいのお値段...
美味しかった〜 Sさん、ごちそうさまでした。


北野のフレンチレストラン...というと、『花の降る午後』を思い出す。

花の降る午後

花の降る午後

 

その油絵は、夫が亡くなるちょうど三か月前に、
療養をかねて志摩半島にあるホテルに逗留していた際、典子が買い求めたものでめった。
 ふらっと立ち寄った英虞湾沿いの喫茶店の板壁に五点並べて掛けてあったのだが、
それぞれの題と値段をしるした紙がピンでとめられていた。
茶店の主人に訊くと、ときおりこの近辺に写生旅行に来る青年に頼みこまれて
場所を提供したのだが、まだ一点も売れていないとのことであった。
 どれもみな六号の風景画で、ひとけがなくて寂しいのに、妙な烈しさを持っていた。
典子は、その中の〈白い家〉という題のついた絵がひどく気にいり、
もう当時三十分もつづけて歩くことすら困難になっていた夫にせがんで買ってもらったのである。
モジリアニが風景画を描いたら、おそらくこのようなものになるであろう。
夫に言うと、「そうかなァ」とつぶやいて優しく笑った。
甲斐典子は、絵の作者の名は覚えていないが、
そのときの夫の笑顔は、四年たったいまでも忘れることが出来ないでいる。
 ブラウンさんのステッキの音が、ゆっくり近づいて来、遠ざかって行った。
北野坂の賑わいと、車のクラクションが、典子の足の下あたりでざわめいている。
典子が営むフランス料理店アヴィニョンは、神戸の北野坂から山手へもう一段昇ったところにあり、
右隣に黄健明貿易公司の事務所、左隣に毛皮の輸入販売を営むブラウン商会が並んでいる。
 誰もいないアヴィニョンの、一階の真ん中のテーブルに頬杖をついて、典子は、
うろこ模様の漆喰壁に掛けてある<白い家>を見つめた。
   宮本輝『花の降る午後』

この小説が出版されたのは'88年のことだから、初めて読んだのは27歳...それから3度ほど読み返した
北野という街の雰囲気が行間からあふれ出てくるような美しい物語に、神戸への憧れがふくらんだ。
出張でも観光でも、合わせたらどれだけ来たことか...
震災の前も後も...数えきれない思い出がある。
神戸…その言葉だけで、胸のなかにノスタルジーがわきあがる。


宮本作品のなかでは、最もロマンチックな作品を読んで、いつかこんな店に行ければという願っていたが
25年の時を経て、偶然の出会いから小説の雰囲気に近いレストランに来ることができた。
不思議なことだ…

 

で、楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまい...仕事の約束時間ぎりぎりになって、挨拶もそこそこで店を飛び出して、
阪神三宮駅まで約1kmの坂道を一気に駆け下りた。

 

そして、阪神電車ゆらりと動きだした刹那に、夢のような時間は記憶の底に沈んでいった。