希い

愛本橋の上空には、鈍色の曇がかかっていた。
晴れていたら、南東の空に白い三日月が出ていたはずだった。
あの小説に出てくるゴッホの『星月夜』と同じ光景は、現実のものではなく
宮本先生のこころに浮かんだ月なのだろう...
それでもいつの日か、この山の上に出る月と黒部川の水面に映る月を見れたら...
今日は、待っても月は出そうにもなかった。

田園発 港行き自転車 (上)

田園発 港行き自転車 (上)

諦めて走り始めた、海へと向かうなだらかな坂道...
田園地帯に出ると、雲のひとところにぽっと火がついたのが見えた。
太陽は見えなかったが、その焔は、見る間に広がっていった。


海が焼ける...そう思った。
水平線に落ちていく大きな落日が見たい...
海まではまだ少し距離があった。
祈るような気持ちで海へと走った。


漁村の家々の隙間を抜けて海に出たとき
厚い雲の隙間からのぞく、真っ赤な太陽が見えた。
ああ 間に合った!

その光景を目にした瞬間
すべての希いが叶っていくように思えた。


あの雲のような宿命に覆われて
なにひとつうまくいかなかった人生の冬が
いつの間にか変わってきたことに...
その瞬間に気がついたのだった。


凪いだ海の上にできた光の道が、まっすぐにこちらに向かって伸びていた。
太陽の動きにしたがって、雲は次々と美しい色に染まっていった。


ただただ しあわせだった。


不意に後ろから誰かに抱きしめられたような気がして振り向いたが、誰もいなかった。


茜色に染まった漁村の板壁の前で、二人の老婆が夕陽に目もくれずに世間話を始めた。