闇のなかの迷路

雲と交わって朱に染まった夕陽は、
山々に抱かれた雲海を染め、温泉街の甍の波を染めて
山の端に消えていった。

美しい山々も、麓の街も、
ゆっくりと降りてくる夜の帳に抗うことなく
闇のなかに沈んでいった。


その温泉街は、湯田中温泉からさらに急な坂道をのぼったところにあった。
急峻な山々と横湯川に挟まれた狭い土地には、
ひしめくように旧い木造の温泉宿が立ち並んでいた。


老夫婦が営む、川沿いの旧いホテルにチェックインし
畳の部屋で浴衣に着替えて外湯に出かけたが、
温泉街には、人の気配をほとんど感じなかった。

アニメ映画『千と千尋の神隠し』のなかで
「油屋」という温泉宿のモデルになった、
「金具屋」という巨大な木造の旅館は、まるで映画からそのまま抜け出てきたように
妖しい空気を放っていた。


迷路のように入り組んだ、人がやっとすれ違えるほどの狭い路地...
毛細血管のように壁という壁に張り巡らされた塩ビパイプ...





旅館と旅館を二階で繋ぐ、トンネルのような渡り廊下
暗い街のなかを照らす、橙色の街灯...
夢のなかの光景のようだった。



そして...心の中の様相なのかな...

「ひとりの人間の心の領域というのは、じつに広大なものです。
氷山の一角という言い方がありますが、海面に出ている氷山は、
海底に沈んでいる氷山の数百分の一にすぎないのと同じように、
自分なり他人なりが見える心の部分は、その氷山の一角よりもさらに何倍も小さいのです。
隠されている部分がいかに大きいかを人間は自分で知ることさえできません」
(中略)

熊吾は椅子に腰かけたまま小谷医師に深く頭を下げ、礼を述べたあと、
 「心ですか...。心とは、広大な闇ですな」
 と言った。小谷医師は首を横に振り、
 「底無しの海という意味では深く潜れば潜るほど闇も深くなりますが、心は同時に目もくらむ光でもあります。
長年医者をやってきて、多くの患者さんを見てきますと、
心というもののなかにどれほど途轍もない力が秘められているかを実感します。
ところが、この心は肉眼で見ることができません。
心のなかには、闇もあれば、その闇を照らす光もある...。
私は心の力というものの凄さに、やっとこの歳になって気がつくようになりました」
 と言った。

     宮本輝『天の夜曲』

流転の海 第4部 天の夜曲 (新潮文庫)

流転の海 第4部 天の夜曲 (新潮文庫)


目に見えぬ闇のなかに、様々なものを隠し持って、人は生きている。
何を隠しているのかさえ、自分でもわからないほど...
そこには、底なしの深い闇もあれば、目もくらむほどの光もある。
しかし、自分の目には見えないのだ。


すべてを抱きしめて、信じるままに生きていくしかないのかな...



川のせせらぎに抱かれて眠りについて
川のせせらぎに起こされて...
再び街に出たら、夜のあの美しい街は、どこかに消えて
雑然とした迷路だけが、そこにのこっていた。