息子のBirthday

K大学後援会の一泊研修の下見で河口湖近辺を回った帰り
息子が今日は早く帰って来れるから
食事に行こうと連絡が入る。
日曜日の20時過ぎ...
一旦帰宅して息子の帰りを待ち、予約もなく出かける。


イカリエンテの息子は、今日で27歳
K大学で都市デザインを学び、
あの震災のあった3月に大学院を卒業して
先輩の経営するデザイン系の設計事務所に就職した。
個人事務所がどこもそうであるように、労働時間は異常に長い
帰宅は毎日終電で午前1時前後 休みは月に1日あるかどうか...
土日もあたりまえのように出ていく


K大学で後援会の役員をしたのも、息子との接点を持ちたかったからで...
卒業したのに、酒を酌み交わす時間もなく、淋しいものだが
本人は愚痴ひとつこぼさずに、淡々と仕事に出かける。


息子が大学受験の最中にリストラに遭い失業...
そして息子が大学から大学院にかけて、会社の経営破綻 会社の不正摘発という
どうしようもない挫折をして、失業を繰り返し、息子にも心配をかけどおしだった。 
こんな出来損ないオヤジからすれば、出来過ぎた息子だ。


金も名声もなくていい。
三十年後に勝つと決めて、これから三十年...なにがあっても負けずに生き切ってほしい...
ただそれだけが願いである。


そして、自分もまた新たな三十年を歩きはじめなければ...

「三十光年の星たち」を毎日新聞朝刊に連載中、多くの読者から感想や励ましのお手紙を頂戴した。
それらの方々に心から感謝申し上げる。
 そのなかの七十八歳のご婦人は、手紙の最後を「私も三十年後の自分を楽しみにして、これからを生きていきたい」
と結んでいた。粛然と衿をただす思いで、私はあらためて三十年という歳月について考えをめぐらせ、
自分もまた再び三十年後をめざすぞと決意を固めた。
 七十八歳の人の三十年後は百八歳。私は九十三歳。
科学的な常識では、どちらも生きている可能性の極めて低い年齢である。
 もし私がいま二十歳であったとしても、三十年のあいだには何か起こるかわからない。
重い病気に倒れるかもしれないし、不慮の事故や災害に巻き込まれるかもしれない。
 勤め先の倒産、事業の失敗、大切な人との別れ、自らの未熟さによるさまざまな恥ずかしい失態、
順調なときの慢心、逆境のときの失意と落胆、永遠につづくかと思える谷底でのあがき。
 三十年という歳月は、ひとりの人間に、じつにさまざまな誘惑と労苦を与えつづけるのだ。
 だからこそ、三十年前、ある人は私の作家としてのこれからの決意を聞くなり、
お前の決意をどう信じろというのか、三十年後の姿を見せろ、と言ってくれたのだ。
その言葉は、以来、かたときも私の心から消えたことはなかった。
じつにありかたい言葉であったと思う。
 三十代半ばの若造の私に、そのような言葉を、一見、冷たく突き放すかに言ってれる人がいたのだ。
(中略)
(今回の新聞連載のオファーがあったときに、いったんは断ろうとして...)
しかし、そんな私のなかで、三十年後の姿を見せろという言葉が大きく鳴り響いた。
 書けないだと? それでも小説家か。三十年後の姿がそのざまか。
 私は自分自身にそう言って「三十光年の星たち」を書き始めた。
ひとりの名もない頼りない、たいした学歴もない青年が、三十年後をめざして、手探りでもがきながら、
懸命に自分の人生を作り始める物語を、である。
 人間には何らかの支えが必要だ。
とりわけ若い人は、有形無形の支えを得て、難破船とならずに嵐をくぐり抜ける時期が必ずある。
だが、いまのこのけちくさい世の中は、若者という苗木に対してあまりにも冷淡で、
わずかな添え木すら惜しんでいるかに見える。
 私は「三十光年の星たち」で、その苗木と添え木を書いたつもりである。
    宮本輝『三十光年の星たち』あとがき