幻の光

峠越えのトンネルを抜けて長い下り坂にかかると、霧のような細かい雨が降りはじめた。
カーテンの襞のように折り重なりながら降ってゆく雨のむこうで
左右に迫る山々の青葉も、狭い空を覆う雲も、次第に光を失っていった。

 

山が切れて灰色に霞んだ水平線が見えたので、車を停めて橋の上から海岸を見おろすと
雨の底に沈んだような灰色の集落に、灰色の波が打ち寄せていた。
濡れた高欄に手をついたまま、僕はそこからしばらく動けなくなった。

すべてが灰色だった。
灰色に少しばかり藍を溶かせば海になり
少しばかり緑を溶かせば山になり
土色を溶かせば街になった。
雲が流れ去ろうと、季節が巡って行こうと、
すべての色の底に灰色が潜んでいるような気がした。

曾々木は一年中海鳴りの轟いてる貧しい町や。
冬は日本海からの風が強うて、吹きつのる雪すら遠くへ飛ばされてしまいます。
海の水のほうが、雪や空気よりも温いからという理由もあるけど、やっぱりその殆どは、
積もる間もなく風に吹き払われてしまうせいやそうです。
そやからどんなに雪の多い年でも、海岸べりには、まだらな雪しか積もることしかでけへん。
凍てついた風と一緒に、波の荒れ狂うような音としぶきだけが、湿った真っ黒な埃みたいに涌き起こってきます。
  宮本輝幻の光

幻の光 (新潮文庫)

幻の光 (新潮文庫)

 

ああ、これが何十年も胸に抱いてきた奥能登の景色だ...

 

曾々木までは来たことがあったが、観光のための看板や駐車場が整備されてしまって
小説の風景には直接結びつかなかったのだった。

 

急な坂道を降りて海辺の集落に入る
波の飛沫が混じったのか、粘りつくような雨が車を覆い、ガラスごしの景色が滲む。
車を置いて海岸沿いの路をふらふらと歩いてみるが
表通りも路地裏も、海沿いの小路も... どこを歩いても人がいなかった。
どこに居ても波の音だけが聴こえてくる。そして雨は蕭々と降っている。
自分は幻想を見ているのではないかと不安になってきた。

 


ゆみ子が、どこかの二階の窓際に座って、ぼんやり海を眺めている姿が浮かび
彼女が語りかける夫の、夜の阪神電車の線路の上を歩いている寂しい後ろ姿や
尼崎のトンネル長屋へと次々と連なっていく...

 

貧乏の巣窟のようなトンネル長屋は、自分が子供の頃に住んでいた便所の臭いのするボロアパートへと繋がり
ある日失踪してしまったまま帰ってこなかった祖母の記憶へと繋がっていく。
線路を歩いている男のうしろ姿に問いかけたかと思うと、自分がその男になって線路の上をとぼとぼと歩いている。
貧乏なうえに身体が極度に弱くて寝込んでばかりいた母の、自殺をしようとした日の映像が浮かび
不意にかきまぜられて舞い上がった沈殿物のように、次々と浮かび上がる記憶の粒子は
よるべなく浮遊して、いつしかまたいのちの底の方へと沈んでいくのである。

 

どこを歩いていても、あの線路を歩いているような気がした。
ここにたどり着いた道も...
いままで生きてきた道のりまでもが...

 

もう帰ろう...そう思って海沿いの小路から川に沿って昇りはじめたとき、川上の方に目をやってはっとした。
最初の橋の向うに、数百はあると思われる鯉のぼりが風に揺れていたのであった。
ここに来て初めて見た「色」であった。心のなかにぽっと灯りがともったような気がした。

僕はふと、「漢さんの金歯」を思い出した。
この奥能登の色そのもののような『幻の光』という小説のなかで
それは、不意に現れる希望の光であった。
夫を自殺というかたちで失ったゆみ子は、能登から見合いに来た関口という男と再婚することになる。
その出発の日、尼崎の駅で母と弟と別れて幼い子の手を引いてホームにあがっていく。

 生まれ育った尼崎の街を、わたしはホームの雑踏にもまれてしばらく眺めてました。
なんで、能登の最北端の、さびれた漁村に嫁いでいく気になったのか、わたしはそのとき自分の気持がはっきり判ったのやった。
能登から八歳になる娘をつれてわざわざ見合いのために尼崎までやって来た、関口民雄という三十五歳の男に心魅かれたのやない、公害の煙とサウナやキャバレーのネオンが、貧乏くさいアパートを囲んでる尼崎という街にいや気がさしたのでもない、ラブホテルでの、まだ生臭い香りが残ってるシーツの敷き直しを苦痛に思たのでもない。わたしは、あんたという人間にまつわる風景から、音から、匂いから、逃げていきたかったのでした。
      宮本輝幻の光

ホームを駆け下りて母のもとへ帰ろうとしたその時に、3人の子供を連れた漢さんとばったり会ったのだった。

漢さんは、朝鮮人で、女のくせに男みたいに髪を刈り上げ、男物の作業衣を着て、ひとりで軽トラックを運転し、廃品回収業をやってる人でした。実際は三十八歳やのに、もう四十七、八にも見える、赤ら顔の頬骨の張ったおばさんでした。その漢さんが、七歳の男の子と五歳の女の子を左右の手に引き、八ヵ月の乳呑み児を背中にくくりつけて、いつもの作業衣で電車を待ったはった。いっつも無愛想なくせに、その日はわたしの顔を見るなり傍に寄ってきて、
 「どこへ行くねん、こんな朝から」
 と訊きはった。

再婚のために能登に旅立つことを知ると
子どもたちを動物園に連れて行く途中の漢さんが、何を思ったのか不意にゆみ子を見送ると言い出す。

雷鳥二号の来るのを、漢さんはホームにまで入って一緒に待ってくれはった。何
か言いたそうな顔して、ときどき□を開きかけてはそのままつぐんでしまう漢さんと、汚ないなりした二人の子供を見てるうちに、わたしはなんでか涙がいっぱい浮かんできた。これまで一度も親しいに話をしたこともない漢さんが、なんでこうやってホームまで送ってくれたんか不思議でした。
 「これからが女ざかりや。....がんばりや」
 こわい顔でそう言いはった。
 「力いっぱい股で挟んだったら、男なんていちころや。相手の子供を味方にするのんが、こつやでェ。ほんまやでェ、ほんまにそないするんやでェ」
 列車の入ってくるのをしらせるアナウンスがあり、わたしはうんうんと頷いて、ホームを走り廻ってる勇一をつかまえるために走っていった。
 列車が出て行くとき、赤ん坊を乱暴に背中にくくりつけ、二人の子供を右と左の手で引いた漢さんが、じっとホームに立ちつくしたまま金歯を光らせて笑いはった。
それは、知り逢うて十年もたつ漢さんが、わたしに見せた初めての笑顔でした。
 不安や心細さや、後悔が重なり合って揺れ動いていた、あのときの私の心に、漢さんはいったい何を注ぎ込んでくれたんやろか。

ゆみ子は、夫の歩いた線路の上を電車で通り、そして新たな路線に乗り換えて新天地へと踏み出していく。
漢さんの笑顔と金歯に見送られて...

 

橋の上まで行って、鯉のぼりを見渡す。
雨に濡れたせいか、潮風が吹いているのに鯉のぼりは緩やかに揺れているだけであった。
それでも、それは人がここで生活を営んでいる証しであった。
線路の幻想は、いつしか僕の足元から消えていた。

 

橋のたもとにあった小さな商店から老婆が出てきたが
橋の上に立つ余所者には興味もないようにそそくさと川上への道を歩いて去っていった。

 

僕は車に乗って、また走りはじめた。