不幸のなかに...

Mさんを乗せた車椅子を押して、駅前のビルまでゆっくりと歩いていた。
一月とは思えないような明るい陽射しも、
線路脇のじめじめした狭い路地には、ほとんど射しこんでこなかった。

 

Mさんから電話があったのは、一年ぶりのことだった。
病気が重くなって、一人で立ち上がれなくなった...
24歳になる娘さんが一緒に住んでいるが、
身体の大きい彼女を支えることができない。
駅前まで行きたいのだが、介護タクシーも土曜日でつかまらないから
連れて行ってほしいという電話だった。

妻に事情を話して、一緒に彼女のアパートに向かった。

 

Mさんとは、小学校の3・4年生のときの同級生だから45年前...
もっとも古くからの友だちということになる。
駅前の寿司屋の一人娘で、お父様譲りなのか、女の子なのに べらんめえ調...
子どもの頃から体格がよく、親分的な存在だった。
たった2年の付き合いだったし、こちらはその後転校を繰り返したので、それきり会うことはなかった。

 

二十代の頃、久しぶりに立ち寄った故郷の街で
その寿司屋の前を通ったら、店が変わっていた。
どこかに引っ越したのかと思って、裏の自宅の方に声をかけたら
小さな娘さんを連れて彼女が出てきた。
お父様は亡くなって、店は閉めたとのことだった。
その頃は、幸せに暮らしているようで、安心した。

 

しかし、それから数年後…
離婚してから彼女の試練の日々が始まった。
お母様と娘さんとの生活を支えるために、昼は社員食堂で、夜は居酒屋で、働きに働き詰めた。
それでも、家を手放さざるを得なくなり、線路脇の古いアパートに転居した。
過労がたたって静脈血栓症になり、足が不自由になってしまった。

 

病院の入退院・引っ越し...頼みやすいのか、そのたびに電話があって、手伝いに行った。
しかし、この一年くらいは、忙しかったこともあり、
メールで入院の連絡があっても、見舞いにも行っていなかったのだった。



電話の声があまりに苦しそうだったので、救急車を呼ぶようにと言ったが
いまの症状では入院はさせてもらえないそうで...
とりあえず、車を飛ばして1時間弱のそのアパートに向かった。
一年ぶりに会った彼女は、顔が大きくむくんで衰弱していて80歳の老人に見えた。
片付けもできず、ごみで埋まった部屋の中から、
手を引いて転ばないように玄関の外の車椅子まで連出した。

 

自分が来なかった一年の間に、心臓を病み、肺癌を宣告されて、抗癌剤治療を受けていた。
母娘二人きり...あの暗いアパートでの貧乏の底を這うような生活は
どんなに淋しく、苦しかったことか...
何故、助けを求めなかったのか...と言いかけて、言葉に詰まった。
忙しさにかまけて1年も来なかった自分を恥ずかしく思ったのだった。

 

線路沿いの道は50年前とほとんど変わっていないのに
駅前の一角だけは、切り取ったように再開発されて、高層ビルが建っている。
そのビルで用事を済ませた後、隣接するスーパーで買い物をしたいという..
娘さんに食べさせるものを買わなければ...と言って、弁当やお茶を買った。
自分は食事もできないほど衰弱しているのに...

 

不幸という不幸を舐めつくしてきた10年...
唯一の生きがいは、一人娘のSちゃんのことだった。

 

アパートに戻り、また部屋まで手を引いて...ベッドに座らせ
またな...と言って別れた。
絞り出すようなかすれた声で言った「ありがとうね」の一言が、最後に聴いた彼女の言葉だった。

 

4日後、会社に向かう電車の中で、彼女の死を知った。
驚きはなかった。
悲しみよりも、ああこれで少しはゆっくり眠れるのかなと思った。

 

血縁のない縁遠い親戚が数名...火葬だけのささやかな葬儀
幼なじみの友の骨を拾いながら、不思議な気持ちになった。
死ぬ前に呼んでくれたんだな... 

 

父親も数年前に亡くして天涯孤独になってしまった娘さんは、
長年母の病気と向き合ってきたせいか、涙もなく気丈にふるまっていた。

 

ふと、『レ・ミゼラブル』の最後の場面が思い出された。
ジャン・バルジャンは、死の床にコゼットを呼び
初めてコゼットの亡くなった母親の話をするのだ。

コゼット、今こそお前のお母さんの名前を教えるときがきた。ファンチーヌというのだ。
この名前、ファンチーヌを、よく覚えておきなさい。
それをロに出すたびに、ひざまずくのだよ。あの人はひどく苦労した。
お前をとても愛していた。
お前が幸福の中で持っているものを、不幸の中で持っていたのだ。
   ユゴーレ・ミゼラブル』佐藤朔訳

レ・ミゼラブル (5) (新潮文庫)

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頑張って生きてください。
お母さんは、貴女のことをいのちよりも大事に思っていた。
どんな不幸のなかでも、貴女と共に生きられる幸福を抱いていた。
最期まで、貴女のお母さんとして生き、貴女のお母さんとして死んだのだよ。



火葬場の帰り道...
早咲きの梅が咲いているのを見つけて、空を見上げたら
哀しみが胸の中にひろがっていった。