津波のあとに...

碧く美しい海が、静かに横たわっていた。
壊れたままの校舎の窓枠が、それを一枚の絵画を縁取る額のように見えて
過去と現在が...現実と非現実が...生と死が... 意識のなかで混乱してめまいを感じた。



真っ黒な魔物に豹変した海は、海辺の街を一瞬にして飲み込んでいった。
逃げ惑う人々の行く手を、常磐線の線路が阻み、この町で600余の命が失われた。
この小学校の子供たちは、屋上に逃げて、間一髪で助かった。
しかし、子供たちの眼には、その恐ろしい光景が映っていたのだろうな...
家族を失った子供も居たのに違いない。

周辺は、瓦礫がきれいに撤去されて
まるで最初から、こんな場所だったのではないかと錯覚してしまうほど
何もない原野が広がっていた。
あの地震の前は、美しい海の見える長閑な町だったに違いない。

何事もなかったように日常を生きている自分が
この場所で写真を撮っていることに罪悪感さえ感じた。
しかし、あの震災を忘れている人たちに知らせなければならないという想いもあった。
多くの人が不意打ちのような地震津波で命を落とし
残された人々も、それぞれの震災を背負って、一日一日を生きている



この街に住むYさんの車に先導されて、ここに来た。
Yさんとの出会いは、K大学の後援会...息子が卒業した大学の親の組織である。
神奈川支部のIさんが東北支援をされている中でYさんの活動に共感し
様々な行事で微力ながら協力をしてきた。

 

山元町は、東北でも随一のいちごの産地であった。
しかし、あの津波で海岸線の近くにあったいちごハウスは壊滅的な被害を受けた。
そんな中、Yさんは得意な手芸を通じて被災された方々に貢献しようと決意された。
アクリル毛糸で、この町の名産のいちごの形のたわしを作った。
いくつもの仮設住宅を回って歩き、暮らすおばあちゃんたちに、そのつくり方を教えた。
仮設の集会場にあばあちゃんたちが集まって、慣れない手仕事をするようになり
少しずつ笑顔が戻りはじめた。
Yさんは、これを売っておばあちゃんたちの収入になるよう、各地を奔走した。
包装のなかに、それを作ったおばあちゃんの名前と住所を書いた。
仮設住宅に居ながら、自分の作ったいちごたわしが遠い地の人々に売れるようになり
おばあちゃんたちの手元には、各地から激励の手紙が届くようになった。
活動費は、すべて彼女の個人負担だった。

K大学でも、後援会のイベントがあるごとに、多くの方にこのたわしを買っていただいた。
少しずつ彼女の活動を認めてくださる方々が現れて、販売も広がっていった。
Yさんの活動に、献身的に協力してきたIさんの提案で、今回9人でここを訪れることができた。
常磐線の坂元駅の崩れたままのホームに立ち、中浜小学校で津波の爪痕を覗いた。


仮設住宅に着くと、おばあちゃんたちが笑顔で迎えてくださった。
家を失ってから4年も、ここで暮らしてきたのに、本当に明るい笑顔だった。
おばあちゃんたちが用意してくださった、いちごと漬物をいただきながら
時間の経つの忘れて、歓談した。



Yさんは、どちらかというと物静かで控えめ...声も小さくて、どこにそんなエネルギーがあるかと思うほど...
しかし、おばあちゃんたちと話しているとYさんへの信頼と感謝が、いかに大きいか改めて実感する。
おばあちゃんたちのこの明るさは、Yさんが手作りで築いてこられたものなのだ。
そして、またいくつもの仮設住宅で、こんな人の和ができ、津波の絶望から多くの人を救ってきたのだな...

 

いつ終わるともわからない復興の闘い
Yさんの横顔には、長い闘争の疲れの色も見てとれた。
いまは、山元タイム の一員として、全国を走り回っておられるが
できるかぎりの協力をしていきたいと思った。
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そして、彼女が広げてきた希望のいちごたわしは、いちご農家への希望と繋がり
去年あたりから、ハウスがいくつも建って、いちごがこの町に戻ってきた。

 

そこだけ春のように暖かいハウスのなかで
色付き始めたいちごは、楽しげに唄っていた。