鯉太郎さんの死


鯉さんへ


鯉さんが突然の事故で亡くなって
4日目の今日...
関東は久しぶりの大雪が降りました。
僕は雪の中に身を置いていたくて
人通りの少ない林道を、がむしゃらに歩き続けて
疲労困憊になって、濡れ鼠のようになって帰ってきました。


1月11日...鯉さんが亡くなった日は、いい天気でしたね。
年明けの一週間...長期休暇の後ということもあって
また、泥沼のような会社に通い始め、僕はまた例の病気に悩まされていました。
毎日のように、考えられないような嫌なことばかりが起こり、
失望に次ぐ失望で、憂鬱な気持ちがどんどん膨らんでいきました。
11日の朝...こんな人生ならいっそ寿命が縮まればいいのに...
そんなことを本気で願ってしまったのです。
だから、Iさんの電話で鯉さんが事故死したことを聞いた瞬間
事務所の窓から見える空の蒼さを見上げながら
自分のせいで鯉さんが死んでしまったという思いが浮かび、心が冷たくなっていきました。


その日の午後も、会社ではくだらない事件が起こり大騒ぎになりましたが
泥のような人間たちを冷めきった心で眺めながら
こんな地獄にいなければならない自分の宿命を呪ってみました。


事故は、鯉さんの完全な不注意によるものでした。
もう10年近くやってきた作業の、初歩的なミスで機械に挟まれて窒息死したのでした。
早朝...始業前に作業をしておこうとしたのでしょう。
アルバイトのKさんが出勤したときには、すでに亡くなっていたそうで...
一瞬のこととはいえ、苦しかったことでしょうね。


鯉さんと出会ったのは、2004年の春...Iさんの事務所でした。
前年にリストラに遭って、就職活動をしていた僕はSさんの紹介で
新しく興すベンチャー企業への参画を薦められていました。
M社長が温めてきた事業が某大手自動車メーカーに認められ、共同開発契約を結んだことで
大阪の銀行がかなり大きな投資をして株式化するということで、その話に乗りました。
人脈をたどってそこに集まってきたのは、ほとんどがリストラや会社の倒産..
大手企業が合わずに辞めてきたなど、さまざまな事情を持った素浪人のような
メンバーばかりで、ちょうど七人の侍のようなものでした。人数も7人...
M社長のプレゼン力は並外れていて、投資家が次々と集まり
会社の規模としては考えられないような資本金が集まりました。


大阪泉佐野の産業廃棄物業者の再生事業から始まり、
様々な現場を縦横無尽に走り回りました。
皆がそれぞれの役割を担いながら、本当によく働きましたね。
辛い仕事ももちろんあったけれど、働くことが本当に楽しかったし
社員同士、本当に仲がよかった。
それは、会社がなくなって5年たって、それぞれ別の仕事をしていても変わりません。


僕は、泉佐野にいきなり単身赴任で乗り込んで行きましたが
ワンルームのアパートに皆泊まりに来て、一緒に飯を食い、枕を並べて寝ましたね。
伊勢に移り住んでからも鈴鹿にアパートを借りた時も
交代で自炊生活をして、同じ釜の飯を食いながら、懸命に働いた。
同僚というよりは、家族のような感覚でした。
いままでの人生で、一番エキサイティングで、そして幸せな期間でした。


いくつもの実績を作ったものの、環境事業は採算を合わせるのが難しく
3年半が過ぎた2007年末に大きな不渡りがあって、会社の経営は破たんし
その上、某自動車会社の事業も打ち切りとなって、
一部継続している事業をのこして、ほとんどの社員を解雇せざるを得ない状況に
なってしまいました。


僕は、それから転職を失敗し続け、転落していきました。
鯉さんも転職することができず、元の環境事業を再開...
しかし、ずっと苦しい状況ばかりでしたね。
結局、社員ではなかったものの出資者の一人であったIさんに助けてもらって
三重の公共事業の仕事と合わせて会社を作り、
なんとか事業を延命してきて、やっと芽が出そうになった矢先...
社会支援事業も兼ねて、新しいスタイルの展開を始め
そのためにホームページをリニューアルする必要が出たというので、お手伝いしました。
そして、次の客先には大きな装置が売れるということで
先週、電話で喜びあったばかりのことでした。


鯉さんの死は、あまりにも影響がおおきすぎます。
あの楽天家のIさんも、相当なショックを受けて、これからどうするか途方に暮れています。
負の遺産をすべて引き受けてくれたIさんには、恩返しをしなければいけないので
皆で協力していくつもりですが...


一昨日...12日、Iさんと一緒にご自宅に弔問にうかがいました。
鯉さんのご遺体に向かって手を合わせながら、一回りも二回りも小さくなったように感じました。
三人の息子さんは、立派に成長されましたね。
かわいいお孫さんもできて、これからが楽しみだったのに...
奥様とも久しぶりにお会いしました。
いつも苦労が絶えなかった鯉さんを支え続けた奥様...
そんなオヤジを理解し、慕っていた三人の息子さん...
いい家族ですね。
葬儀で飾るために、鯉さんが子供の頃からの写真を貼り合わせて大きな額に入れてありました。
遺影は、最近畑仕事をしていた写真で、あの皺だらけの満面の笑顔を使うとのこと...
鯉さんの写真は、どれを見てもいつも笑顔でした。
記憶の中に残っている顔も、無邪気な笑顔ばかりです。


帰りに、鯉さんとも行ったことのある居酒屋で、
新潟の単身赴任先から帰ってきたSさんも含めて、今後の仕事のフォローについて
話し合いました。


ご遺体に会ってきたのに、まだ鯉さんが死んだなんて、信じられません。
また、元気な声で電話がかかってきそうな気がするし
居酒屋で飲んでいたら、後から現れそうな気がします。


でも、もう一緒に飯を食うことも、酒を飲むこともないんですね。
寂しいことです。


雪の中を三時間も歩き回って、時折鯉さんのことを思いかえして涙を流して...
冷え切った身体にアルコールを流しこんで帰って
しばらく、死んだように眠りました。


起き上がっても、喪失感だけは消えずに心に重くのしかかってきます。


明日からまた、現実の地獄が始まります。
今日は、いつもより多めの薬をアルコールで流し込んで休みます。


とりとめもなく、ごめんなさい。


葬儀の日、最後のお別れにうかがいます。