思いの宛先としての

いろいろなことがあった一週間...
疲労が極限に達した昨夜
抗鬱剤を二日分まとめて飲んで、深い眠りについた。
15時間の間、長い長いとりとめのもない夢を見ていた。



死なないでいる理由 (角川文庫)

<死>の経験というものをあらためて考えてみるに、死ぬことよりも、
死なれることがじつはその原型なのではないかとおもう。
だれにも死はかならず訪れる。だれも死を避けることはできない。
それは有限の生を生きる者にとって必然の出来事である。
けれどもその出来事は経験というかたちで起こることはありえない。
経験は死とともに不可能になるからだ。いいかえると、死はいつも経験の彼方にある。
死は現在(presence)になりえない。死はいつも不在(absence)として迫ってくるものである。
これに対して、他人の死はまぎれもない経験として生じる。
だれかに死なれるという経験として、無関係なひとの死は
ひとつの情報として経験されるにすぎないであろうが、
深い関係にあるひとの死は、「失う」という経験、
(他者の、ひいては自己の)喪失の経験としてまぎれもないひとつの出来事となる。
         鷲見 清一『死なないでいる理由』−死なれるということ

自分とはかかわりのない世界で、人が死んだというニュースは毎日のようにテレビで流れる。
今日も、アルジェリア天然ガス施設でテロがあり、多くの人命が失われたが
気の毒なことだと思っても、直接的な痛みは感じない。
しかし、身近な人の死には遭いたくないと思うし、現実に起こってしまうとこんなにも悲しい。

<わたし>は「他者の他者」としてある。<わたし>は、わたしでないひと<他者>にとって、その人が無視できない別の存在<他者の他者>でいるとたしかに感じるときに、まごうことなき<わたし>となる。
それは、わたしがそのひとに気にかけられるとき、愛されているとはかぎらない。
憎まれるとき、わたしを見ているだけで気分が悪くなると言われるときでも、
その他者の思いの宛先として<わたし>はたしかにここに存在する。
         鷲見 清一『死なないでいる理由』−死のかたらい

思いの宛先として<わたし>は存在する。<わたし>を思いの宛先としている人が死ぬことによって、彼の思いの宛先としての<わたし>は死ぬ。
死による別れは究極であるが、人との別れというものは、
思いの宛先としての自分の死であって...心が傷つき、痛むのかな...


前回、鯉太郎さんの死を日記に記した。
Facebookに数名の方からすぐ書き込みをいただいた。
Uさんからは、長文のメールで励ましをいただいた。
葬儀の前日、Mさんから突然呼び出され、仕事の帰りに居酒屋で会って、励ましていただいた。
昨夜もAさんから自分を気遣うメッセージをいただいた。
彼らにとっては鯉太郎さんは赤の他人であって、それ自体が痛みとしてあるわけがなく...
自分のことを気遣っての激励だった。
そこには、彼らの<思いの宛先>としての自分がいた。
温かい思いが、漣のようにひたひたと心の中に押し寄せる。


この数年...自信というものをすっかり失ってしまって以来
どれほど多くの友人から激励を受けてきたことだろう...
膨大な数の<思いの宛先>となってきたことに改めて気がつき、茫然とする。
善意の人々とつながっているという想いが改めて感謝の気持ちとなって湧き上がる。


先日引用した<四面出香>という言葉が、再び浮かぶ。
生命という宝の塔は、生老病死という避けがたい苦難を通して益々荘厳されていくという仏説...
http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20121220
ここで言う生老病死は、自身の生老病死だけではないのかな...
生命と生命が、どこか深いところでつながっているものだとすれば、
身近な人々の生老病死をも共に悩み励まし合って乗り越えていくところに、
四面出香という姿があるのかもしれない。
とすれば、自身を飾るのは、友の幸福を祈る思いと行動ということになるのかな...
自分が漣を送る側にならなければ