二度目の奥松島

K大学後援会神奈川支部の行事で
宮城県奥松島へ...
本年1月に続いて二度目の訪問になる。
(前回の日記↓)
http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20120128


仙台市内でレンタカーを借りて現地に向かう。
高速を降りて鳴瀬川沿いに海岸へ...
津波ですべてが流された野蒜海岸は、
一年前とほとんど変わらず...ただ、瓦礫の山だけが
大きくなっていた。


最近営業再開した、縄文文化村のレストラン「げんちゃんハウス」で昼食をいただき
宮戸小学校の仮設住宅にある「みんなの家」へ...
同行したT教授による理科教室。大学にできる支援として前回に引き続き開催。
ここは住人も少なく、子供もあまりいないため参加者は少なかったが、
和やかな雰囲気で地元の方々と交流ができた。


宿に入って、遅れて来られたS教授の講演
そして、夕食。
食べきれないほどの海の幸が、次から次へと運ばれてくる。
多分、地元の人でさえ今は口にできないような食材ばかりである。
感謝で胸を熱くしながら、ひとつひとつ噛みしめていただく。



前回の訪問時...津波で周囲の街がほとんど流されてしまい、鉄道も止まってしまって
観光客が完全に途絶え、復興関連の人たちが素泊まりするだけの営業をしていた。
支部長の熱意で主の心が動き、震災後始めて食事つきの団体客として受け入れていただいた。
あれから一年...あのとき踏み出した一歩で、泊まり客が増え始め軌道に乗り始めたようだ。
食事をする広間では、隣でにぎやかな忘年会が楽しそうに行われていた。
支部長は、その後ずっと交流を続け、友人の方々と毎月お菓子を焼いて、
この地域の方々に送り続けてきた。
地域のみなさんが、I支部長の顔を見ると「いつもありがとう」と声をかけてくる。
支援というのは、こういうことなんだな。
自分は、ただ便乗して参加しただけで、単発では支援にならない。


後援会の東北支部から飛び入り参加してくださったYさん。
津波で家を流された。
しかも宮城県南部...原発から60kmの地域に住んでおられた。
その地域はいちご栽培が盛んであったが、ハウスはことごとく津波で消えた。
手芸を得意にしているYさんは、仮設に暮らすおばあちゃんたちに、毛糸を編むたわしの造り方を教えた。
Yさんは、おばあちゃんたちの作ったたわしを回収して販売し、そのお金が作った人に戻るよう
毎日仮設を走っている。
彼女の口から出る言葉の中に「震災があったおかげで...」という言葉が何度も出る。
今まで味わったことのない楽しさを感じていると...
これは観念ではない。言い尽くせぬ苦悩を超えてきたからこそ言える言葉だ。
そして...
お金もモノもいらない。ずっと忘れないでほしい。なんども来てほしい。
復興は、まだまだこれからなのだから...と...


何ができるわけではない。
でも、忘れないでいること...自分の眼で見た現実を伝えることはできる。
厳しい闘いを乗り越えてこられた方々の笑顔を思い浮かべながら床についた。