過ぎ去るもの

K大学の後援会総会@新宿キャンパス
息子の卒業に伴って、四年間勤めた
後援会の役員も卒業になる。
後援会本部の副会長の責務は今日で終了。
イカリエンテがリーダーをしていた
広報ワーキングで制作したビデオも、
今日がお披露目。
映像制作会社のY嬢とも最後の挨拶。
そして、総会で議長を務めたのを最後に
次の役員にバトンタッチした。
副会長をやった去年からは特に忙しく
ピーク時は毎週会議があったり行事があったり、地方支部に出張に行ったりと...
途中体調が悪くなって辛い時もあったが..終わってしまうと寂しいものだ。

議長...


総会の後、28階の会議室で懇親会...全国から集まった役員の方々に最後の挨拶をする。
二次会では、先生方や仲間との別れを惜しんで、飲んで騒いで..ちょっと暴れて..
北海道から来られたUさんと、ゆっくり話す予定だったのだが、
あまり話せず...それだけが残念。

自宅に戻って自分の写真を見て、改めて歳をとったなと思う。
老眼というのは、鏡を見たときに皺が見えなくなるようにできているのだな..
いつまでも若いつもりでいても、確実に一日一日老いていく。
気がついたら、こんなに皺しわで、肥ってないのにあごはたるんでるし...


そして、この大事な一年を仕事に就けないまま過ごしてしまった取返しのなさを思い
残り少なくなってきた人生の時間の方向さえ決まらない不安定さを思う。
いまの一瞬一瞬は過去へと過ぎ去り続けていく。

ドストエフスキイの生活 (新潮文庫)

ドストエフスキイの生活 (新潮文庫)

凡ては永久に過ぎ去る
誰もこれを疑う事は出来ないが、疑う振りをする事は出来る。
いや何一つ過ぎ去るものはない積りでいる事が、
取りも直さず僕等が生きている事だとも言える。
積りでいるので本当はそうではない。
歴史は、この積りから生まれた。過ぎ去るものを僕等は捕まえて置こうと希った。
そしてこの乱暴な希いが、そう巧く成功しない事は見易い理である。(中略)
歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起こって了った事は、二度と取返しがつかない、
とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。
それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は巨大な恨みに似ている。
もし同じ出来事が、再び繰り返される様な事があったなら、
僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。
後にも先にも、唯一回限りという出来事が、
どんなに深く僕等の不安定な生命に繋がっているかを注意するのはいい事だ
愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。
あらゆる人間に興味を失う為には、人間の類型化を推し進めるに如くはない。
どの様に幸福な一日にしたところが、僕等はそれと全く同じ一日を再び生きるには堪えまい(中略)
子どもを失った母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくいたと語ってみても無駄だろう。
類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎまい
掛替えのない一事件が、母親の掛替えのない悲しみに釣り合っている。
彼女の眼が曇っているのだろうか。それなら覚めた眼は何を眺めるか。(中略)
子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えのなさを、母親に保証するものは、
彼女の悲しみの他はあるまい。
どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、
為すところを知らないからである。
悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、
恐らく生きていた時よりも明らかに。
愛児のっさやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起こるかを仔細に考えれば、
そういう日常の経緯の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読みとるだろう。(中略)
歴史は決して繰り返しはしない。
ただどうにかして歴史から科学を作り上げようとする人間の一種の欲望が、
歴史が繰り返してくれたらどんなに好都合だろうかと望むに過ぎぬ。
そして望むところを得たと信ずるのは人間の常である。

            小林秀雄ドストエフスキーの生活』序 より

若い頃に読んでも、ぴんとこなかった文章が、いまになって解ってくるような気がする。
気のせいかもしれないが...
掛替えのない時間を、精一杯に生きたいな...