3度目の失業

またしても、仕事を失ってしまった。


イカリエンテが入社する前のこと...国からもらっていた補助金を会社が不正流用していたらしく
それが経済産業省に発覚して罰則を受けホームページに会社名を公開された。
そんな不正がある状況で、社長が何も知らないムイカリエンテを誘ったということ自体
15年も付き合ってきた友人として残念でならない。
取引先からはボイコットを受け、厳しい経営がさらに傾いた。
イカリエンテに給料を払うのが惜しくなって、たった4ヶ月で斬られた。


今日からまた失業者である。
あまりにも過酷な宿命に呆然として数日を過ごしたが
自宅に戻って報告をし、何人かの近しい友人にも連絡をした。


天職とも思えた三重でのベンチャーの仕事を失ってより2年余。
こんな短い期間に3社もの会社を転々として、最後は4カ月で幕切れになってしまった。
様々な理由があるにせよ、その会社に出会い入社したのは、間違えなく自分の宿命である。
誰のせいでもない。
敗北...圧倒的な敗北...これほどの屈辱を味わうとは、思いもしなかった。
本年2010年は、何としても勝利で迎える決意だったから...
今こうして仕事さえなくなってしまったことが、悔しくて悔しくて...


そんな自分の元に、友人は春の雨のように次々と激励を注いでくれた。
わが事のように悩み、そして激励してくれ、泣くこともできない自分の代わりに泣いてくれた。
なんとか活路を見出そうと、自分のことのように考えてくれている友もいるし
長文のメールをくれた友、何も言わずに一緒に飲んでくれた友...
皆がこぞって、自分を守ってくれていることを、痛切に感じた。


そんな数々の言葉の中で、カメラマンのK君が発した言葉が胸に刺さった。
仕事を失ったことを言うと、間髪をいれずに「使命がありますね」と一言。
こんな姿のどこに何の使命があるというのか...一瞬理解できなかった。
しかし
多くの友人の姿を思い浮かべたら..そうか、そういうことかと意味がわかってきた。
この圧倒的な敗北の姿にも、意味があり使命がある。


この宇宙の営みから見れば、仕事をなくすくらい たいしたことではないのだ。
風に吹かれて、木の葉が一枚落ちたくらいのできごとだ。
2年で20年分生きたと思えば良いではないか。
何人もの人生を生きたと思えば良いではないか。
苦悩を味わうことは、人生を味わうことかもしれない。
平穏無事に遊び暮らしているだけでは、その深さはきっとわからない。
まだまだ苦しいことがあるかもしれないと覚悟しよう。


思えばこの日記を書き始めたのは、はじめての失業生活を終えてベンチャーに入ったときのこと
イカリエンテを自称しているうちに、人生までラティーノになってきた。


何度となく読んできた『ベートーヴェンの生涯』を読みかえす
これほどの苦悩から歓喜を鍛え出した姿に、あらためて感動する

善のために悩んだ偉大な魂の人々、雄々しい「友ら」の一群を人々の周りに据えようと私が企てるのは
人々に助力を贈るためである。
「卓越する人々の生涯」のこの一群は、野心家たちの慢心へ語りかけるものではない。
これらの伝記は、不幸な人々に捧げられる。しかし、前じつめればいったい誰が不幸でないであろうか?
悩める人々に聖なる香油を捧げようでなないか。(中略)
人格が偉大でないところに偉人は無い。偉大な芸術家も偉大な行為者もない。
あるのは、たださもしい愚衆のための空虚な偶像だけである。
時がそれを一括して滅ぼしてしまう。
成功はわれわれにとって重大なことではない。
真に偉大であることが重要なことであって、偉大らしく見えることは問題ではない。
ここにわれわれが語ろうとする人々(ベートーヴェンミケランジェロトルストイ・ミレー)の生涯は
ほとんど受苦の歴史であった。悲劇的な運命が彼らの魂を、肉体的なまた精神的な苦痛
病気や不幸やの鉄床の上で鍛えようと望んだものにせよ
あるいは彼らの同胞らが悩まされる隠れたさまざまの苦痛と屈辱との有様を
彼らの心情が感じ識ったことによって引き裂かれ、その故に彼らの生活が荒寥たる観を呈したにもせよ
とにかく彼らは試練を日ごとのパンとして食ったのである。
そして彼らが力強さによって偉大だったとすれば、それは彼らが不幸を通じて偉大だったからである。
だから不幸な人々よ、あまり嘆くな。人類の最良の人々は不幸な人々と共にいるのだから。
その勇気によってわれわれ自身を養おうではないか。
そしてわれわれ自身があまりにも弱いときは、われわれの頭をしばらく彼らの膝の上に載せて
憩わせようではないか。

               ロマン・ロランベートーヴェンの生涯』まえがき

自身を燃え立たせて、今日からまた、新たな決意で新たな挑戦を開始します。