朝から重い雲が空を覆い、雨が降っていた。
強い風が街路樹を大きく揺らし、通りを歩く人たちの傘をしならせていた。
今日は家で過ごそうかと思って自分の部屋(外が見えない)にこもっていたが、
腹が減ってリビングに出てくると、さっきまでの天気が嘘のように晴れあがっていた。
ベートーヴェンの『田園』交響曲の、第4楽章から第5楽章...
あの嵐の場面から、嵐の後の長閑な田園の風景への転換のようだった。
窓から吹きこんでくる風が気持ちが良いので、遊歩道を歩いて散歩に出る。
携帯に入っているベートーヴェンを聴きながら...
コンサートホールで聴くベートーヴェンもいいけれど、
若葉の匂いがするような緑道を歩きながら聴くのも心地よいな...
ベートーヴェンも好んで田園を歩いたという。
帰宅して、しばらく開いていなかった『ベートーヴェンの生涯』を開いてみる。
自らの運命と正面から闘い抜いて歓喜を勝ち取った人間の言葉を...
大事なときに、しばらく忘れていたのだ。
一、「今、運命が我をつかむ...」自分は光栄なく塵の中に亡びざらんことを願う!...
二、汝の力を示せ、運命よ!...我らは自らの主人ではない。
決定されてある事は、そうなるほかない。さあ、そうなるがよい!
三、私にできることは何か?...運命以上のものであることだ!
『ベートーヴェンへの感謝』
ベートーヴェンの手記をロマン・ロランが抜粋した部分だ。
なんという覚悟...なんという力強さだろう
そしてロマン・ロランは続ける...
同一の戦いの三つの叫び、三つの挿話(エピソード)。...
身を踠(もが)く誇り。克己的な忍受。そして精神の勝利。
われわれは彼の音楽の中でいかにたびたびこの三つの叫びを聴くことだろう!
そしてあたかも、一本の樹に打ち込む樵夫の斧の響きが森全体に反響するように、
ベートーヴェンのこの偉大な叫びは、全人類の心の中に反響する。
それはあらゆる時代、あらゆる国のものである。
人間の精神、その願望の勇躍、その希望の飛翔、愛へ、可能へ、そうして認識への強烈なその羽ばたき。
これらのものが到る所で鉄の手に突き当たる。
すなわち、人生の短さやその脆さや、制限された諸力や、冷淡な自然や、病気や失意や、当外れやに。
われわれはベートーヴェンにおいてわれわれの敗北とわれわれの苦悩とに再会する。
けれどもそれらは、彼によって高貴なものとなされ、浄化されているのである。
これが第一のたまものである。
そうして第二の、最大のそれは、悩めるこの人がわれわれに勇敢な諦念を、
苦しみの中の平安として与えてくれるそのことである。
人生をあるがままに見ることの、そしてあるがままに愛することの、
この諦念的調和を、彼は自らのために実現し、またわれわれのために実現した。
なおそれ以上のことを彼は成就した。彼は運命と婚姻して自分の敗北から一つの勝利を作り上げた。
『第五交響曲』や『第九交響曲』の、あの心を酔わせる終曲(フィナーレ)こそは、
打ち倒された自分自身の身体の上に、勝ち誇って光明に向かって立ち上がる、開放された魂以外の何者であるか?
この勝利は孤独な一人の人間のもののみにとどまらない。それはまたわれわれのものである。
ベートーヴェンが勝利を獲得したのはわれわれのためである。彼はそのことを望んだ。
...他人のために働こうとする専念は、絶えず彼の心に還って来た。
願わくは彼の不幸が彼以外の人間に役立つがよい!
諸君はハイリゲンシュタットの遺書の美しい言葉を憶えていられるであろう。
「不幸な人は、自分と同じ一人の不幸なものが、尊敬に値する芸術家と人間との列に伍することを得しめられんがために、自然のあらゆる障害にもかかわらず、全力を尽くしたことを知って慰められるがよい」
その期間のあらゆる交響曲が一つの勝利を表しているところの、宏大な闘いの十年間の後に、
幸福を渇望していたこの人がこの世には自分のための幸福はないと覚ったときの自己放棄の言葉は何であったか?
「おまえはもう自分のための人間であることは許されていない。ただ他人のためにのみ...」
自分の芸術を他人のために役立てようという考えは彼の手紙の中で絶えず繰り返されている。
自分は自分の運命と向き合ってきたのか?闘おうとしたのか?
否、目をそむけ或いは背を向けて逃げてきたではないか!
ベートーヴェンの苦悩から見れば、万分の一にもみたない芥子粒のような悩み...
そんなことにさえ向き合えない臆病者だったな...
いま闘わずして、いつ闘うのか?
運命以上のものという意味を識るために...ぎりぎりのところで闘ってみよう。