存在の意味

日曜日から滋賀来て仕事...
月曜日の朝から一気に仕事を片付けて
午後から嫌な交渉事のため、一人大阪へ...
社会のため人のために仕事をしたいと思いつつ
結局は会社の利害のため、
人に迷惑をかけたり、人を傷つけたりしなければ
ならないのが、現実の社会である。
言葉を選んで、相手の立場を傷つけないようにしても、そんなきれいには、物事は進まない。
結論は出ないままに、後味の悪い交渉は終わり、割り切れない思いで大阪の雑踏を歩く。


中途半端に滋賀の事務所に戻っても意味がないので
茶店でメールや電話をして仕事を進め、
直帰の連絡を入れてから、大阪第3ビルの地下で一人酒。
紹興酒につまみが2点セットで1050円。大阪は、やっぱり物価が安い。
酔いが足りずに紹興酒をもう一杯。
アルコールがまわった足で、再び梅田の迷路のような地下街をあてもなくしばらく歩いて電車に乗る


噛みきれない想い

わたしは「いない」より「いる」ほうがほんとうによかったのか...。
六十近くまで生きてきて、この問いからわたしはまだ放たれていない。
なにか他人の役に立てることをまったくしてこなかったわけではないし、
またそうしようとときには力をふりしぼってきた。
けれども、わたしがいたせいで厄介なめ、難儀なめにあったひとも少なからずいる。
わたしがいるせいで苦しんだひともいる。
わたしとかかわることがなければ、別のもう少しましな人生を送れたのではないかとおもうひともきっといるだろう
「功罪半(なかば)す」という言葉があるが、わたしの存在もきっとそういうものなのだろう。
とすれば、わたしはいなくてもよかたということになる。つまり、わたしは「いない」より「いる」ほうが
ほんとうによかったのかという問いに、わたしは結局イエスとは答えられないことになる。
                鷲田清一『噛みきれない想い』  ”人生の「課題」”

考えてみれば、自分の存在など広い世界から見れば、風に吹き飛んでいく桜の花びらほどの重さもない。
そんなことはわかりきっているはずなのに、自分の存在価値が気にかかるのは、どうしたことだろうか?
考えても考えても答えの出せることではない。
では、自分にとってかけがえのない存在とは...と考えてみる。
自分に歓びをもたらしてくれた人々の顔を思い浮かべる。少ないようで、意外と多いのではないか。
どうせ完ぺきな生き方などできるわけもないし、人を傷つけ人を悩ませることだってたくさんしているのだ。
そうであれば、少しだって人に歓びをもたらせるような行動をとることだけが
「いない」より「いる」ほうがよかったといえる生き方につながっていくのかもしれない。


人生の課題に向き合っていくため、明日もまた社会の塵芥の中で闘わねば...

人間の精神、その願望の勇躍、その希望の飛翔、愛へ、可能へ、そうして認識への強烈な羽ばたき。
これらのものが到る所で鉄の手に当たる。
すなわち、人生の短さやその脆さや、冷淡な自然や、病気や失意や、当て外れやに。
われわれは、ベートーヴェンにおいてわれわれの敗北とわれわれの苦悩に再会する。
けれどもそれらには、彼によって高貴なものとなされ、浄化しているのである。
            ロマン・ロラン 『ベートーヴェンの生涯』