しだれ梅の園

糸のような細い雨が音もなく降りはじめた。
前を歩く白髪の夫婦と距離が縮まらぬよう、
土の匂いがたちのぼる小径をゆっくりと歩いていった。


何も言わずに連れてこられたのであろう...
少し下がって歩く夫人はどこか拗ねたようにうつむいている

 

門をくぐり目隠しになっている通路の先で
庭園が視界に入った瞬間、ちらっと見えた夫人の横顔がぱっと華やいだ。
まあ素敵と声をあげ、黙って前を歩く夫を小走りで追っていく...
二人の小さな後ろ姿の向うには、枝垂れ梅が雲のように咲き乱れていた。



 

花が降っていた... 滝が流れ落ちるように降っていた。
雨も霞むほどに いっせいに花が降り注いでいた。



 

花降る軌跡を留めたような、しなやかな放物線のうえに浮かんだ花びらに雨粒が光りそして滴る。
散った花びらは、やわらかな土のうえに降り積もって濡れていた。


 

美しい時間はあまりに儚くて、そして足りなくて...
なんとか押し留めようとあがいてみても、時は容赦なく流れていく。

生まれては死に、生まれては死んでゆく繰り返しのなかで

出会った花々もまた、今生の別れを惜しむひまさえなく散ってゆく。
堕ち行く花に追いすがって伸びたような細い枝垂れが、寄る辺なく風に揺れる。


 

鈴鹿の森庭園...一本だけでも見事な大枝垂れ梅が、
ここには200本以上も各地から集められているという。
そのすさまじい花々がいっせいに開き、そして散っている。
生と死とそのあわいのいのちの姿が、錦絵のように眼前にひろがっている。


 

愛する気持ちを胸に宿したとき、私たちが手にしているのは悲しみの種子である。
その種には日々、情愛という水が注がれ、ついに美しい花が咲く。
悲しみの花は、決して枯れない。
それを潤すのは私たちの心を流れる涙だからだ。
生きるとは、自らの心のなかに一輪の悲しみの花を育てることなのかもしれない。
     若松英輔『悲しみの秘儀』


儚く散るとわかっていても...否、儚いからこそなお人は花を愛でずにいられない。
いつか別れの時が来ると知りながら、人は人を愛しまずにはいられない。
一輪の悲しみの花を育てているのかな...

 

 

ここにはどれだけの花が咲いて堕ちていくのだろう
あの夫婦の姿は、もう僕のいる場所からは見えなかった。
今ごろこの庭園のどこかで、この奇跡のような花を見上げながら
寄り添って春の慈雨に打たれているのかもしれない。

 

僕は再び細かい砂利を踏んで歩きはじめた。
どこかで母親が子供を呼ぶ声が聴こえた。