漁師小屋

風は強く海は荒れていた。
幾重にもせり上がっては崩れていく白波は風に蹴散らされ
舞い上がった飛沫が海を煙らせていた。


飛び立とうとしては風に押し戻され
諦めて砂浜にうずくまる海猫たちを見おろすように
一羽の鳶が風を掴んで悠々と飛んでいた。

晩秋の砂浜には、人の姿はなかった。
強烈な海風に時おりよろけながら、枯草を踏んで砂丘を歩く
天空に響いてる轟音が、風の音なのか波の音かさえ
もうわからなかった。


あんなにも海が荒れているのに
目の前の砂浜には、こんなにも静かに滑りながらひろがっていく
波が引いたあとの濡れた砂の上に、その一瞬の空が映り込んでは
消えていく...

果てしなく繰り出されそしてまた海に溶け込んでいく波は
世界のどこかで生まれそして死んでいくいのちのようであった。
僕はいまどこにいるのか...父は...母は...
来し方で縁して来た人々の顔がいくつも浮かび...
顔の見えない無数の人々の姿が浮かび...
次々と生まれてきては、或は荒々しくうねり、或は波間に静かに漂いながら
いつしか海に還っていった。
生も死も、すべて海の上でのできごとでしかなかった。
光り輝く波も、闇に沈む波も、同じ海の上での姿でしかなかった。

砂丘先の波打ち際に、漁師小屋が見えた。
かつては人が暮らしていたようであったが、
いまは人の気配もなく、壊れた車と漁船が打ち捨てられていた。

「生きようが死のうが安心していなさい...」
『約束の冬』に出てくる厚田村の番小屋での情景が蘇る。
若くして肝臓がんを患い闘病してきた小巻が
冬の荒れた海の番小屋で聴いたという海の声が...

「冬の荒れる北の海って、もうたまらなく寂しいんだけど、じーっと見てると、その向こう側に...
そう言って、小巻は黙り込み、何か言葉を探しているようだったが、それきり口をひらかなかった。
留美子も板戸のところへ行き、小巻と並んで坐り、恵一と五人の青年のおぼろな姿を見つめた。
「その向こう側って、海の向こう側ってこと?」
留美子の問いに、
「荒れる冬の海の内部ってことかな...」
と小巻はつぶやいた。
「お前には、なんにも怖いものはないんだよっていう、やさしい言葉が間こえたの」
「聞こえた? 小巻ちゃんの耳に?」
「うん。心配しなくっていいよ、って...」
「海が?」
「うん」
「いつ?」
「二度目の手術をして退院して、ずうっときつい薬を飲んでたころ、ここに来たの。
二月にね。お兄ちゃんに頼んで、つれて来てもらったの」
私がついている。私にまかせておけ。生きようが死のうが、安心していなさい。
自分はたしかにその声を聞いたのだと小巻は言った。
「私ね、その声を聞いて、この番屋から出て、浜辺へ歩いて行ったの。
吹き飛ばされそうになりながら...。もっとその声を聞きたくて。
でも、浜辺に立つと、そんな声はどこからも聞こえなくて...。
一戻って来て、この板戸から海を見てると、またちゃんと聞こえるの。
生きようが死のうが安心してなさいって...」
そのとき、いろんなことを考えたのだと小巻は言った。
だが、「いろんなこと」がどんなことなのかは語らなかった。留美子も訊かなかった。
小巻だけに聞こえた声というものを信じられそうな気がしたからだった。
   宮本輝 『約束の冬』

小巻は中学生の時に留美子と一緒にネパールに学校を建てようと約束していたのであった。



小屋を見おろせる土手に登って海を眺めながら、
自分はどれほどの約束をしてきたことかと想いを巡らせる。
どれもこれも、果たしていない約束ばかりが次々に浮かぶ
途中でいろいろなことが崩れていったにせよ
約束だけは果たさねばならぬ
人は約束を果たすためだけに生きているのだから...

雲間から最後の光が射し、海のひとところを輝かせてから静かに暮れていった。
海は闇の中に沈んでいったが、波は一向におさまる気配もなく
星もない空の下で、果てしない生死を繰り返していた。

約束の冬〈上〉 (文春文庫)

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約束の冬〈下〉 (文春文庫)

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