富士から湧きおこる雲

日没までにはまだ間があるのに、東京の上空には重い雲がかかり
既に日が落ちたあとのような暗さだった。

宮崎行の飛行機は、灯火もまだまばらな街を見下ろしながら、雲の中に突入していった。
窓にねばりつくような水蒸気の海...何も見えない空中に浮遊する、寄る辺ない瞬間...


やがて視界がひらけると、そこには湧きあがるような蒼い雲海...
上端だけが薄い茜色に染まっている。
遠い積乱雲の隙間を時おり水平方向に走る稲妻が美しい。

西に行くにしたがって雲は急激に高度を下げ...その先に青黒い富士山が姿を現した。
強烈な風が富士山にぶつかって、そこから巨大な雲が湧き上がっていた。
なんと雄々しい姿か...

ベートーヴェンのシンフォニーが聴こえる。
ジャン・クリストフ歓喜が蘇る。

彼の眠りは不整だった。電気を放つように神経がにわかにゆるんだ。身体が震えた。
荒々しい音楽が夢の中までつきまとってきた。
夜中に眼をさました。
音楽会で聞いたベートーヴェンの序楽が、耳に鳴り響いていた。
序曲のあえぐような息使いで、室の中がいっぱいになってきた。
彼は寝床の上に起き上がり、眼をこすりながら、自分はまだ眠ってるのかどうか考えた。
.......いや、眠っているのではなかった。彼はその序曲をはっきり聞き分けた。
憤怒の喚きを、猛りたった吠声を、はっきり聞き分けた。胸の中に躍りたつ心臓の鼓動を、
騒がしい血液の音を、耳に聞いた。荒れ狂う風の打撃を、顔に感じた。
その狂風は、あるいは吹きつのって吠えたて、あるいは強大な意力にくじかれて突然やんだ。
その巨大な魂は、彼のうちにはいり込み、彼の四肢や魂を伸長させて、非常な大きさになした。
彼は世界の上を歩いていた。
彼は大きな山であって、身内には暴風が荒れていた。
憤激の嵐! 苦悩の嵐!....ああなんという苦悩ぞ! 
しかしそれはなんでもなかった。彼はいかにも強い心地がしていた。
......苦しめ!もっと苦しめ!.....ああ、強いことはなんといいことだろう! 
強くて苦しむことは、なんといいことだろう!
彼は笑った。その笑声は夜の静寂のうちに響きわたった。父は眼をさまして叫んだ。
  「だれだ?」
母はささやいた。
 「しッ! 子供が夢を見てるんです。」
三人とも黙った。彼らの周囲のすべても黙った。
音楽は消えた。そして聞こえるものは、室中に眠ってる人々の平らな寝息ばかりだった。
それは皆、眩むばかりの力で「闇夜」の中を運ばれてゆく脆い小舟の上に、
相並んで結びつけられてる悲惨の仲間であった。
   ロマン・ロランジャン・クリストフ』 第一巻 曙


そのあとは、凪いだ海のような静かな光景があるばかりだった。

大阪上空で進路を左に傾けた瞬間に残照が赤く染めた大阪湾に淡路島の影が浮かんだ。
そして闇が訪れた。