燃える紅葉のなかで

黄色や朱に染まった葉が、はらはらと舞い落ち、
苔むした庭に、ぽつりぽつりと紅葉の柄を描いていった。


旧軽井沢の細い道を思いつくままに歩いてたどり着いたのは
人の気配のない別荘が道の両脇に続いているだけの静かな場所だった。

このあたりの別荘は塀らしきものもなく
膝よりも低い石積みと木の杭に細い針金か金網をかけただけの簡単な柵があるだけで
子供であれば、するりと抜けて、敷地から敷地を抜けてどこへでも行けるようなものだった。
しかし、大人の眼で見れば、富めるものとそうでないものを分ける仕切りであり
どうやっても越えられぬ壁なのである。

新装版 避暑地の猫 (講談社文庫)

新装版 避暑地の猫 (講談社文庫)

布施家の別荘の敷地は三千四百坪あった。
父があちこちから丸い石を集めて来て、まるで積木遊びを楽しむようにして造りあげた
高い門柱と、真鍮製の特別誂えの門扉には、苔と蔦が絡み合い、
隣接する名だたる財界人や政界人の別荘と較べてもひけをとらないばかりか、
その門の風情は、ずっと奥の、白樺の樹林越しに見える屋敷に、
一種神秘的なたたずまいを与えるほどだった。
ぼくは、その布施家の敷地の隅にある小さな木造の家で生まれた。
ぼくの両親は布施家の別荘番として雇われ、昭和二十六年の春に、
佐久市からその家に移ったのだった。
  宮本輝『避暑地の猫』

美術館で絵画を観るような気分で歩いて行くと、
ある別荘の広大な敷地の縁に建つ小さな小屋があった。
今は物置として使われているようであるが、
あの物語の少年とその家族が棲む小屋は、きっとこんな佇まいだったのかな…
美しく燃える紅葉の森の中で、そこだけが重く沈んでいるように見えた。
別荘を囲む敷地の境界線は、
彼らにしたら逃れることのできない宿命の壁であったに違いない。

富によって人間を支配しようとする人間と、それに蹂躙され続ける人間と...
それぞれのいのちに沈む「愚」が絡み合いながら堕ちていく。
そこから生まれた「悪」は燃え尽きたが、消滅はしなかった。

ぼくは、幼いころの母の愛撫と、地下室でぼくに灯油を浴びせられていた母の
ひきつった顔を交互に思い浮かべた。
胸から上を炎と化して崩れ落ちていく父の姿を忘れることは出来なかった。
その母と父の、そして姉の、布施家の別荘における十七年間について考えるうちに、
ぽくはなぜかこの宇宙の中で、善なるもの、幸福へと誘う磁力と、悪なるもの、
不幸へと誘う磁力とが、調和を保って律動し、
かつ烈しく拮抗している現象を想像するようになった。
調和を保ちながら、なお拮抗し合う二つの磁力の根源である途方もなく巨大なリズムを、
ぼくはぼくたち一家の足跡によって、人間ひとりひとりの中に垣間見たのだが、
不思議なことに、そのとき初めて、真の罪の意識と、
それをあがなおうとする懺悔心が首をもたげたのだった。
百万人の飢える子供たちにパンを与えることなどで、ぼくの罪はひとかけらも消えはしない。
百万人の末期の人を、身を捧げて看護することなどでも、消えはしない。
いつか、ぼくの皮膚は溶け、内臓は腐り、精神は狂うだろう。
人間の作った法ではなく、ぼく自身を成している法が、必ずぽくを裁くだろう。
その予感は、絹巻刑事の追及よりも何千倍も恐ろしかった。
   前掲書

善と悪の根源にある巨大なリズムとは、なんだろう
不幸に振れ、幸福に振れながら、それでも生きていかねばならない人間の
いのちとは、いったいなんだろう...


そう書きながら、昨今の戦争で苦しむ人々の顔を思い浮かべたのだった。
庶民は、手の届かぬ権力に蹂躙され、テロリスト集団に蹂躙され、そして国際社会の利害に蹂躙され
住む場所も食料も奪われ、一瞬も休まることなく戦火のなかで生きている。
なぜそこに生まれなければならなかったのか...
そして富めるものの犠牲になって、逃げ場のない戦地で死ななければならないのか...


Facebookを始めた頃、シリアの高校生から友達申請があった。
日本のアニメが好きで、日本語を学んで日本に行きたいという...ごく普通の高校生だった。
しかし...
内戦が激化し、彼も戦闘に巻き込まれていったのだった。
彼の投稿のなかに、戦死した相手の戦闘員の死体の写真がアップされるようになった。
こんなものは載せるなと言ったし、何度も警告したが、彼はやめなかった。
「戦争反対」という標語は、彼の耳には入らないことだろう。
憎しみは憎しみを呼んで増幅していく
テロの撲滅を武力ですることなどできはしない。
イスラム国が消滅しても、また新たなテロ集団が生まれるに違いない。
為政者は、自分の任期だけすぎてしまえば、それでいいのだ。
彼とは、それきり音信が途絶えたが、もう生きているかどうかさえわからない。
人間とは、哀しいものだな。
人間とは愚かなものだな。



フラフラと歩いて、
いつしか、雲場池にたどり着いていた。


冬にみかけた魔物の影も夏の翠に輝く水面の影に覗いた暗い水底も、そこにはなかった。
ただ、水面の上で、真っ赤な炎が人の形になってゆらゆらと揺れていた。