岬に着いたとき、東の空は既に白みはじめていた。
北風にさざめく波が銀色に染まり始めた海の上を
貨物船が静かに横切って行った。
ふと振り返ると、山の上に黄色い大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。
昼と夜の境目の、絵のような月を見ていたら、『件(くだん)』のことを思い出した。
黄色い大きな月が向うに懸かっている。色計りで光がない。
夜かと思うとそうでもないらしい。後の空には蒼白い光が流れている。
日がくれたのか、夜が明けるのか解らない。
黄色い月の面を蜻蛉(とんぼ)が一匹浮く様に飛んだ。
黒い影が月の面から消えたら、蜻蛉はどこへ行ったのか見えなくなってしまった。
私は見果てもない広い原の真中に起っている。
躯がびっしょりぬれて、尻尾の先からぽたぽたと雫か垂れている。
件(くだん)の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、
自分が その件(くだん)になろうとは思いもよらなかった。
からだが牛で顔丈(だけ)人間の浅間しい化物に生まれて、こんな所にぼんやり立っている。
何の影もない広野の中で、どうしていいか解らない。
内田百輭『件』
- 作者: 内田百けん
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/11/20
- メディア: 文庫
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三日だけ生きて、世の禍福を予言して死んでいくという『件』...
この物語では、『件』を見つけた人々が何万人も集まって来て
『件』の一挙手一投足に、一喜一憂しながら予言を待つのだが、
『件』である「私」は、何も言うことが見つからないまま時が過ぎていく....
見えない明日を見たいと願う人間の心が生み出した化け物が
薄紫の雲のなかにぼんやりと立っている姿を思い浮かべる。
波の間に浮かんでは消える禍福などという幻を...
その下に横たわる深い海など見えなくなった俺の寝ぼけ眼は
追い求めていたのかもしれない。
足下を掘れ、そこに泉あり...
足元でざわめく波の間から、そんな言葉が不意に聴こえる。
ああしかし、ふらふらと放浪してきた俺には
どこが掘るべき場所なのかも、わからなくなってしまった。
雲は、薄紫から櫨色(はじいろ)へと変貌していった。
どこからあらわれたのか、凄まじい数の海鳥が、
強い風をはらみながら、海の上を旋回しはじめた。
雲の上辺がかっと光った次の瞬間
赤い大きな旭日が姿を現した。
光の筋が真っ直ぐにこちらに走り来て
足元の波を朱く染めた。
美しかったように思える過去のノスタルジーにも
見えもしない明日の幻影にも惑わずに
いま立っているこの場所で...
なにひとついいことのないこの場所で...
足下を掘るしかないのかな