月と旭日と...

岬に着いたとき、東の空は既に白みはじめていた。
北風にさざめく波が銀色に染まり始めた海の上を
貨物船が静かに横切って行った。


ふと振り返ると、山の上に黄色い大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。

昼と夜の境目の、絵のような月を見ていたら、『件(くだん)』のことを思い出した。

黄色い大きな月が向うに懸かっている。色計りで光がない。
夜かと思うとそうでもないらしい。後の空には蒼白い光が流れている。
日がくれたのか、夜が明けるのか解らない。
黄色い月の面を蜻蛉(とんぼ)が一匹浮く様に飛んだ。
黒い影が月の面から消えたら、蜻蛉はどこへ行ったのか見えなくなってしまった。
私は見果てもない広い原の真中に起っている。
躯がびっしょりぬれて、尻尾の先からぽたぽたと雫か垂れている。
(くだん)の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、
自分が その件(くだん)になろうとは思いもよらなかった。
からだが牛で顔丈(だけ)人間の浅間しい化物に生まれて、こんな所にぼんやり立っている。
何の影もない広野の中で、どうしていいか解らない。
  内田百輭『件』


内田百けん (ちくま日本文学 1)

内田百けん (ちくま日本文学 1)


三日だけ生きて、世の禍福を予言して死んでいくという『件』...
この物語では、『件』を見つけた人々が何万人も集まって来て
『件』の一挙手一投足に、一喜一憂しながら予言を待つのだが、
『件』である「私」は、何も言うことが見つからないまま時が過ぎていく....


見えない明日を見たいと願う人間の心が生み出した化け物が
薄紫の雲のなかにぼんやりと立っている姿を思い浮かべる。
波の間に浮かんでは消える禍福などという幻を...
その下に横たわる深い海など見えなくなった俺の寝ぼけ眼は
追い求めていたのかもしれない。


足下を掘れ、そこに泉あり...
足元でざわめく波の間から、そんな言葉が不意に聴こえる。
ああしかし、ふらふらと放浪してきた俺には
どこが掘るべき場所なのかも、わからなくなってしまった。


雲は、薄紫から櫨色(はじいろ)へと変貌していった。
どこからあらわれたのか、凄まじい数の海鳥が、
強い風をはらみながら、海の上を旋回しはじめた。


雲の上辺がかっと光った次の瞬間
赤い大きな旭日が姿を現した。


光の筋が真っ直ぐにこちらに走り来て
足元の波を朱く染めた。


美しかったように思える過去のノスタルジーにも
見えもしない明日の幻影にも惑わずに
いま立っているこの場所で...
なにひとついいことのないこの場所で...
足下を掘るしかないのかな


いつしか光の道は薄れ、空の色は冷めていった。
海鳥の群れもどこかに失せて
鳶が一羽、雲のない空を悠然とわたっていった。