山肌から這い降りてきた霧が、曲がりくねった林道を覆っていった。
それはみるみるうちに濃くなっていったので、慌てて車の速度を落とした。
いもり池の睡蓮に逢いたくなって、ここに来たのだが
もはや、目の前のアスファルトも、真っ黒な森も、道端の花々も...何も見えなかった。
ただ真っ白な霧が、果てしなく行く手に横たわっていた。
路上に車を停めて、いもり池への道をゆっくりと歩いて行った。
霧に包まれた いもり池の畔に女が立っていた。
貴子だった。
もう何十年も経っているのに、貴子は17歳のままだった。
真っ白なワンピースを着た貴子は、
池を覆い尽くす真っ白な睡蓮の花から視線をはずさぬまま
「やっと見つけてくださったのね...」と言った。
そして
「ずっとここで貴方を待っていたんだわ」と言って、私をにらんだ。
霧のなかで心がみだされていくのを感じながら
私は、あの日の記憶に還っていった。
私たちは、大きな池の周りを並んでゆっくりと歩いた。
細かい霧の粒が、貴子の髪を、頬を...そして白いワンピースを
しっとりと濡らしていった。
水のなかを歩いているようだった。

元のところまで戻ると「もう一周歩きたいの」と貴子は言った。
私は黙ってうなずき、そしてまた霧のなかを歩いた。
対岸にうっすらと木立の影が浮かび上がったのを見て、ふと足を止めた刹那
貴子に後ろから抱きすくめられた。
やわらかな乳房から、小さな鼓動が背中に伝わる。
「すこしだけ、こうしていさせてね」
背中で消え入りそうな貴子の声がした。
霧が雨へと変わっていく兆候なのか...
少しだけ大きくなった水の粒が頬にあたるのを感じた。
それは、自分という人間が生死の繰り返しのなかで為してきた
無数の善悪であるような気がした。
そして、それはおおいなるものに護られながら
やがて浄化されていくことを信じることができたのだった。
「またみつけてね...霧のなかで...きっとよ...
わたし、ずっと待っているわ」
そして貴子は、薄れ始めた霧のなかに溶けこんでいった。
涙にぬれたような真っ白な睡蓮の花が、静かに空を見上げていた。
誰かを待っているように、空を見上げていた。
......霧のいもり池で浮かんだ『避暑地の猫』の幻
『避暑地の猫』は、何度かブログに書いてきましたが、貴子の場面はこちらで↓
https://muycaliente.hatenablog.com/entry/20150807/p1

