魔物の棲むところ

足元の水面を覗き込んで、思わず後ずさりしそうになった。
静かな水面の上の光景が、一瞬魔物の姿のように見えたのだ。

軽井沢の森には魔物が棲んでいる...
そんな先入観が、こころのなかに映じたのかもしれない。

 

よく見れば、それは美しい冬の森の姿であった。
夕暮れの雲場池には、人の影はなかった。

雪融けが始まってぬかるんだ池の周りの道を歩くうちに
陽が落ちて、闇と冷気が森の間から這ってきた。
木々の枝と水面の影の見分けがつかなくなっていった。

なんと美しい姿なのだろう...
その中に引き込まれそうになった刹那
雪を踏む足音で驚いた鴨が岸を離れて静かに波が立ち
水面に映った虚像も揺れて、目が覚めた。


なぜ、軽井沢に行ったのか...雲場池に足を踏み入れたのか...
引き寄せられたとしか思えなかった。
名古屋から小諸へ向かう途中、ネットで近辺のホテルを探したが手頃なホテルが空いておらず
たまたま出てきた、軽井沢駅前の安いホテルを予約した。
冬の軽井沢は人影も少なくひっそりしていて、食事をする店を探しながら
気がついたら別荘地の間を歩いていた。
雲場池」という看板が目に入ったので、何も考えずに寄ったのであった。

 

写真をFBにアップすると『避暑地の猫』(宮本輝著)についてコメントがあったので
帰宅して読み返すと、そこに「雲場池」が出てきたのだった。
宮本文学のなかでは異色な、重く苦しく哀しいばかりの物語を、
若い自分は読むに耐えず、一度読み返したきり
20年ほど一度も開かずに本棚に入れたままにしてあった。
この歳で読み返してみれば、いのちの深淵に迫った凄みのある作品だと思う。

 

昭和26年 軽井沢の3400坪もある広大な別荘の使用人として、番小屋に移り住んできた久保家と
別荘の主である、布施金次郎の物語である。

 

少年 久保修平が、大人たちのおぞましい世界を垣間見た時に
林を走り抜けてたどり着いたのが雲場池であった。

ぼくは日が暮れるまで、雲場池のほとりの岩に腰を降ろし、
何物かから身を隠すように、うずくまっていた。
やがて霧がたちこめてきた。霧はあっという間に、池の水さえ見えぬくらい濃くなった。
思い起こしてみれば、その日から、深い霧がたちこめるたびに、
ぼくの心はある狂気へと否応なくのめり込むようになったという気がする。
霧が出てくると、頭痛が始まり、体中の力が抜け、口をきく気力すら失なうのだった。
心は虚無に包まれ、ときには微熱が出ることもあった。すべての人間の中にひそんでいる魔...。
外にあるものではなく、内に宿している魔に活力を与える媒体は、ぼくにとっては、あの軽井沢の霧であった。
  宮本輝『避暑地の猫』

内に宿している魔...
魔とは、決して別の世界に棲んでいるものではない。
自身の心の内に飼っているものなのだ。

欲望や嫉妬や慢心や疑念や...
そんなものをきっかけにして、ふとした瞬間に首をもたげる。

 

夕暮れのこの池に映し出されていたものは、自分の心のなかの魔物であった。
それは美しく、魅惑的な姿をしていた。

その母と父の、そして姉の、布施家の別荘における十七年間について考えるうちに、ぼく
はなぜかこの宇宙の中で、善なるもの、幸福へと誘う磁力と、悪なるもの、不幸へと誘う磁力
とが、調和を保って律動し、かつ烈しく措抗している現象を想像するようになった。調和を保
ちなから、なお措抗し合う二つの磁力の根源である途方もなく巨大なリズムを、ぼくはぼくた
ち一家の足跡によって、人間ひとりひとりの中に垣間見たのだが、不思議なことに、そのとき
初めて、真の罪の意識と、それをあがなおうとする懺悔心が首をもたげたのだった。
  前掲書

魔物が内にあるのなら、それを打ち破る剣も自身の内にあるに違いない。
宇宙のなかでも、自身のなかでも、善と悪が激しくぶつかり拮抗している...

 

鴨が飛び去った後の池は、再び静かになり、美しい景色を映し出した。
しかし、どこを探しても魔物の姿は見えなくなっていた。






おまけ
翌朝の軽井沢...凍った池