旧北陸街道を歩く(2)

[風景][文学]旧北陸街道を歩く(2)
黒部川は、打ち寄せる波を切り裂いて、
やがて静かに大海に溶け込んでいった。


なんという荘厳なる瞬間
川を人の生涯に譬えるならば、河口はまさに「死」のその時か...
急峻な斜面を滑り落ち、岩を砕き、あらゆるものを呑み込んで...
大地を潤し、生命を育み、数知れぬ小さな川とぶつかり合い融合して
ここまで流れてきた。
言い知れぬ想いをすべて抱いたまま流れてきた雄々しき川は、歓喜の歌を唄いながら
抑えきれぬ躍動を、川面に浮かべながら...
海へ海へとなだれ込んでいった。


そして、いのちが尽きた...否、生まれ変わったその辺りが
いままさに、光り輝いていた。

その美しきいのちの姿をを、わがいのちに刻んだ。
きっと生涯忘れえぬ光景になるであろう、この瞬間を...


魚津での打ち合わせを終えて、レンタカーで国道8号線を東に向かった。
黒部川を渡る黒部大橋を渡る途中、視界の隅に光る海が映ったのだった。
荘厳なる死を、歓喜の死を胸に焼き付けたまま、黒部川沿いに上流に向かった。
目的は愛本橋であった。


この近くには何度か来ているのに、愛本橋には行ったことがなかった。
この橋が、『田園発 港行き自転車』(宮本輝著)で大事な役割を担うのである。


−−−私は自分のふるさとが好きだ。ふるさとは私の誇りだ。何の取り柄もな二十歳の女の
私か自慢できることといえば、あんなに美しいふるさとで生まれ育ったということだけなのだ。
 私は、いちにちに一回は、心のなかで富山湾を背にして黒部川の上流に向かって立ち、深い
峡谷がそこで終わって扇状の豊かにな田園地帯が始まるところに架けられた愛本橋の赤いアーチ
を思い描く。
 どんなにいやなことだらげのいちにちであっても、六畳一間の古いアパートに帰って来て、
息をするのも億劫なほどに疲れて畳の上に突っ伏してしまっても、烈しい清流の彼方に見える
赤い橋は必ず私の心に浮かぶ。
 むりやり思い浮かべようとするのでばない。逢いたくてたまらなかった人がほほえみながら
やって来るかのように、自然に心の奥からあらわれ出るのだ。
   宮本輝『田園発 港行き自転車』

小説の冒頭の一文である。


走りながら、遠くに愛本橋の赤いアーチが見えてきたときは、こころがときめいた。
しかし、近くまで来たらどこにもありそうな橋に見えた。
黒部川も護岸工事を施され、川底もそこだけ人工物であった。

どこに小説のなかの美しさがあるのか...
自分の心はぼやけているのか?
山を上って見下ろすと、橋の肩ごしに青々とした水田が見えた。
そのアーチの曲線も、赤と緑のコントラストも美しかった。
しかし、この橋に喩えられたふみ弥は、そこにはいなかった。


そして、山を下り、小説のとおりに川沿いの道を下っていった。
川原に降りて、愛本橋を振り返る。
雄々しき立山連峰の山々に守られて、静かに佇む赤いアーチは
座して一心に横笛を奏でる、凛としたふみ弥の姿に見えたのだった。
若くして亡くなった芸妓のふみ弥がそこにいた。



後日、新潟のいもり池で見た白い睡蓮を見ていて、なぜかふみ弥を想い
短歌が不意に浮かんだ。

けがれなき
 きみが差し出す白き手は
   泥より生い立つ いのちなりけり

最近、テルニスト(宮本輝ファンクラブ)では、俳句が盛んであるが、
俳句は短すぎて書けないので...
といっても、これも短歌と言えるのかどうなのか?



そして生地漁港へ...
そこには、街のいたるところに湧き出す、黒部川の伏流水が湧き出る井戸がある。
いつも飲んでいる水とは明らかにちがう、ふくよかな味...そんな気がする。
地元の人は、この水を飲み、ご飯を炊き、料理を造り、水割りをつくるんだな
なんという贅沢なことだろう。


日没前の曇り空のすきまから差し込んだ光りに一瞬だけ海が光った。
富山の海岸線をずっと旅してきたけれど
もしかしたら、ここが最も美しい眺めかもしれないな。
太陽はやがて雲の後ろに姿を消し
しずかな港町は、夕暮れのなかに沈んでいった。