泥のなかで

足元に視線を落としたまま、いもり池への小道を歩いていった。
祈るような気持ちで...一歩また一歩...


池の隅に咲く一輪の睡蓮を見た瞬間、胸の中で花が開いたような気がした。
そして視線をあげると、広大な池一面に、無数の睡蓮が咲き誇っていた。

ああ、今年もこうして無事に咲いている。




去年の夏、圧巻の睡蓮絵巻をここで観た。
そして冬...
豪雪のこの高原で、睡蓮はどんな姿なのか見たくなって
ここに立ち寄ったのだった。
顔がこわばるほどの凄まじい寒気のなかで
池は氷に覆い尽くされていた。

光も差し込まない、真っ暗な泥水のなかで身を屈して...
氷に閉ざされた、凍てつく水のなかで息を殺して...
死んだように生きるしかなかった長い冬


氷のわずかな隙間から見えた泥水のなかの朽ちた睡蓮が
自分の姿のように思えたのだった。

ああ、こんなにも汚れなき純白の花が
あの恐ろしいような闇の中から生まれてきたとは...
なんということだろう


曇り空を見上げる幾千のいのちを
去年の夏よりも、より一層に愛おしく思った。



そして、自分のいのちのなかにも
こんな美しい花の種が眠っているということを信じようと思った。


睡蓮の季節に必ず読み返す『睡蓮の長いまどろみ』

蓮池の縁に佇む美雪の姿が、忽然と現れる。

私は底無しのように見える汚れた泥を見つめつづけた。
 この底に、あの美しい花を咲かせる蓮の種がいったいどれだけの数、
眠っているのだろうと思った。
そして、この汚ないぶあつい泥がなければ、あの美しい蓮の花は咲かないのかと思った。
この泥のなかに、私がいる...という幻想くらい、私を鼓舞したものは、
おそらくこれまでの私の人生では他になかったはずだ。
 そのとき、私は花果同時という言葉、さらには因果倶時という言葉が、
途轍もなく勇気を秘めた言葉、巨大な希望を蔵した言葉であることを知ったのだ。
夏の、盛りの蓮の花を見たときよりももっと強く、
 私は幸福になるための新しい因を自分でいま作ろうと決心した。
因を自分で作るのだ、と。
      宮本輝『睡蓮の長いまどろみ』


そして、自分は再び満開の睡蓮の前で、
幸福になるための新しい因を作ろうと決めたのだった。



                                                                                          1. +

睡蓮は花果同時ではないので... 後日撮った蓮の写真を...
埼玉の古代蓮園にて... 初めて見た白い蓮