輝く水面

軽井沢の霧の中を歩いてみたくて、早朝の雲場池に出かけた。
貴子が待っている霧のなかへ...

 


それにしても、貧しい人間たちにとっての軽井沢という町はいったい何であったろう。
一年のうちのほんの一、ニカ月滞在し、町を、在の人々を、蹂躙し、
かつ潤わせる裕福なよそ者の群れが播き散らすゴミは、おそらく彼等が去ってしまってからも、
森や小径に気体化してとどまっていた筈である。
その富める者たちの臭素は、来年また必ず夏が巡って来るという自然の法則に覆われて、
決して蒸発することはないのだった。在の、貧しい人々の心はゴミ箱のようなものだった。
金持ち連中の残していったゴミは、心の中にたまって、憎悪や羨望や虚無や欲望を、
それぞれがあるときはつのらせたり、あるときはしぼませたりしながら、元の単調な生活に戻るのだ。
         宮本輝『避暑地の猫』

新装版 避暑地の猫 (講談社文庫)

布施金次郎の別荘の番小屋で生まれ育った修平
軽井沢に避暑に訪れる布施家に翻弄される地獄のような日々...
17歳の修平は、偶然の事故に見せかけて夫人を殺してしまい
そして、美しい母と姉を弄ぶ布施金次郎を憎み殺意を抱く
そんななかで、修平の目の前に現れた画廊の娘貴子
霧の中で精神を乱す病を持った修平は、霧の朝に貴子と逢う約束をする。

「こっちへ来て」
 ぼくはそろそろと声の方に近づいていった。濡れた木の葉や細い枝が、
顔やセーターに当たって、そのままへばりついた。
「水の中にいるみたいだ」
 やっと貴子のいる場所に辿り着くと、ぼくは、彼女の頬を両手で挟み、唇を合わせた。
貴子は、ぼくの顔に付いた木の葉を取りながら、
「ほんと...。凄く震えてる」
と囁いた。それから、ぼくの両手に自分の両手を重ねた。そして、ぼくを引き寄せ、
唇でぼくの熱を計った。
「霧が晴れたら、おさまるの?」
「うん、嘘みたいにおさまるんだ」
「そうよ、嘘なのよ。体が嘘をついてるんだわ」
 その言葉は、ぼくの奇妙な病気の本質を言い当てているような気がした。
貴子はカーディガンのボタンを外して欲しいと言った。
ぼくがそうすると、次に貴子は自分で白いブラウスのボタンを外した。
ぼくが性急に手を滑り込ませようとすると、貴子はぼくに強い力で抱きつき、
「私、恥しいことをしたの。嫌われるかもしれないようなこと」
と言った。その意味は、ぼくの抑えきれない欲情の手が、ブラウス越しに乳房を包んだとき判った。
貴子はブラジャーを身につけていなかったのである。
「嫌いになんかなるもんか」
 ぼくは、ブラウスを左右に開き、貴子の乳房を見つめた。そして、その両方を、自分の掌に入れた。
それはころころと逃げ廻って、血の巡りの悪くなっているぼくの手を温めた。
濃い霧を透かさなくても、貴子の乳首という月と、その廻りにかかった暈が、
ともにおぽろな桃色で彩られているのを知った。
貴子はぼくの肩に両手を乗せ、目を閉じたまま、何度も唇を寄せてきた。そうしながら言った。
「修平さんの熱が曳くまで、こうしてる」
ぼくたちは、とても長いあいだ、深閑とした霧深い森の奥で、抱擁し合っていた。すると、
次第にぼくの手の震えはおさまり、心臓の鼓動も鎮まっていった。頭の鈍痛も消えたのである。
                   宮本輝『避暑地の猫』

霧の中で、貴子に逢いたかったのだ...

 

しかし、軽井沢に近づくにしたがって、霧は薄れていった。
雲場池にたどり着いたとき、霧は、池の水面を這う蛇のように、ゆっくりと森の奥へ流れていった。

去りゆく霧を追いかけて池のほとりの小径を急いだが、思った以上に流れは速く、途中で諦めた。
霧の下から現れた水面には、朝日に浮かび上がった森が映っていた。



この世のものとは思われぬ美しい翠は、輝きながらゆらゆらと揺れている。
それは、軽井沢に避暑に来る富める者たちの華やかな姿のようであった。



水辺の木の葉先から朝露がぽとりと落ちてできた波紋が広がっていくのを目で追っていくと、
足元に映る葉陰のなかに暗い水の底が覗いていた。

別荘の隠し扉の下にあった秘密の地下室は、こんなところにあったのだ...
表層の輝く景色...季節ごと…時間ごとに変転していくその景色の下にあるものは
深い水のそこに眠る、いのちという普遍

 

貴子は... いのちを浄化してくれる貴子は...
霧のなかにいるのではないのだな
自分のいのちのなかに棲んでいるのだ。

 

落ちては消えていく朝露の波紋を、ぼんやりと見ていたら
突然、大きな鯉が浮かび上がって水面で身を翻した。