闇に浮かぶ

鬱蒼とした森のなかを歩いていた。
紅葉を探しにきたが、そこは常緑樹ばかりで紅葉しそうな木が見当たらなかった。
諦めて場所を移そうとしたとき、道からはずれた森の奥のほうに
真っ赤に色づいている木が一本あることに気づいた。
雲の切れ間から差し込んだ陽射しで、その紅葉は輝きはじめた。


雨上がりに虹を見つけたような気分になって
道から外れて、落ち葉を踏みしめながらその木に歩み寄っていった。


遠くから見たときは、輝いているかに見えたその楓は
間近で見ると、決して鮮やかな色ではなく、色も斑で、赤なのか黄色なのかも判然としなかった。
日当たりの悪いせいか、手入れの行き届いた庭園の紅葉のような美しさもなかった。

鳥にでも運ばれてきたのか、一粒の種がここに落ちて、たまたま芽をだした。
ほとんどの種は、途中で力尽きて土に還っていった。
彼は、人の目に触れることもなく、人の手で手入れされることもなく、
大地の栄養分とわずかばかりの日光で生き延びて来たのだ。

彼は、若いようでもあったが、老いてる人のようにも見えた。
風雪に一人耐えてきたその肌はくすみ、シミだらけだった。


輝いて見えたものは、彼のいのちであった。
いま、束の間の陽射しに浮かびあがっている彼の姿を見ていたら、
あのトルストイの人生が心の中に浮かび上がってきた。

トルストイは幾度も翼を折られては地上に落ちた。
それでも彼はあくまで志しを捨てなかった。そしてふたたび飛び上がっていった。
理性と信念という二つの大きな翼で「広くて深い空」を飛びまわったのである。
しかし彼は求めていた安静を空に見いださなかた。
空はわれわれの外にはなかった。空はわれわれの中にあったのである。 
トルストイはそこに彼の熱情の嵐を吹き起こした。その点で彼は世捨て人たる僧侶とちがっている。
すなわち生きんがために注いだ熱情を遁世にも注いだのである。
そしていつも恋する人間のようにはげしく人生を抱きしめていた。
「人生に夢中」になっていた。「人生に酔っていた。」彼は人生に酔わずには生きてゆけなかった。
幸福にも不幸にも酔うのである。死にも不死にも酔うのである。
彼の個人生活からの遁世は、永遠の生活を求めて興奮した熱情の叫びにほかならない。
彼が到達した平和、彼が求めた魂の平和は、死の平和ではなかった。
それは無限の空間を昇ってゆくあの燃える天体の平和であった。
彼にあっては、憤怒も平静であり、平静も燃え上がっていた。
     ロマン・ロラントルストイの生涯』

トルストイの生涯 (岩波文庫)

トルストイの生涯 (岩波文庫)

ああ、こんな風に強く生きられたら...


このところ、つまらぬことに惑わされて心が曇っていたな...
それを覚醒させてくれたのは、この健気ないのちだった。
世間の浅きことに流されまい 一人立つ精神で強く生きねばならない
人生を抱きしめよう!
人生に酔いしれよう!


いつしか陽は西に傾き、森には闇が迫ってきた。
輝いていた紅葉は、静かに夕暮れの闇に沈んでいこうとしていた。