皇帝ダリア

薄紫の大きな花が、不釣り合いなほど細い茎の先でじっとうなだれていた。
得体のしれない哀しみが彼女の胸につかえているようだった。

日曜日の午後、ぐずぐずと寝床から這い出て遅い食事をとり散歩に出かけた。
11月ももうすぐ終わるというのに、緑道の楓の葉はまだ青々としていた。
ニュータウンから取り残された市街化調整区域は、
なにを作っているのかもわからない畑が無秩序に並び、
いたるところに車の侵入を防ぐバリケードが立てられた雑然とした農地で
ドライバーの格好の昼寝の場所になっている。


散歩の目当ては満開になっているはずの山茶花であったが、
その山茶花畑をくぐり抜けた畑の境界の斜面で、出会い頭にこの花を見つけたのだった。
皇帝ダリアは背が高く、2メートル以上になるので
いつもは、下から見上げる格好になってしまって、華やかな姿しか見えなかったが
今日は、そんな哀しげな横顔を見てどきりとした。


17歳の伏し目がちな乙女が、そこに立っていた。
若く美しくしあわせなはずなのに、何かが満ち足りない。
そんな哀しみが彼女の心を満たしていた。
焦点の合わない眼で、足元をぼんやりみつめながら、ため息をひとつ...

妾(わたし)はこんな日が来るのを、前から知っていたのじゃないかしら。
ひょっとすると生まれない前から。何かしら約束事めいた思いがします。
(中略)
妾はただ何とも口で言えない程悲しい。
まるでお魚が一匹も棲んでいない海みたいな妾の心が悲しいのです。
でも悲しいなんて事はなんでもない、ほんとになんでもありますまい。
でも悲しくなければ一体妾はどうしたらいいのでしょう、
ああ、なんだかわけのわからない事を言っています。
   小林秀雄『おふえりあ遺文』

生まれる前からの約束事を、甘く切ない約束事を
語ろうとしたやわらかな唇が微かにうごいた。
悲しみの祈りは、彼女の美しさそのものであった。



本当に美しいものを見出すには、よくよく見なければならない
観念でしかとらえていなかった小林秀雄の言葉の意味が、
目の前の実感として胸に迫った。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。
見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。
何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。
諸君は心の中でお喋りをしたのです。
菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。
それほど、黙って物を見るという事は難かしいことです。
菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。
言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま持ち続け、花を黙って見続けていれば、
花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。
(中略)
何か妙なものは、何んだろうと思って、諸君は、注意して見ます。
その妙なものの名前が知りたくて見るのです。
何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。
これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。
画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。
愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。
     小林秀雄『美を求める心』


皇帝ダリアなどという種の名前など、そこには必要なかった。
こんなにも偶然に...出会った花との、一対一のいのちの対話がそこにあった。
もしかして、彼女に呼ばれたのかな...ここに来たのは...



もう少し近づこうと思って一歩踏み出した瞬間、彼女の姿は忽然と消えた。
そこには、にぎやかにおしゃべりする乙女たちの楽しげな姿があった。







おまけ この日の散歩で見た花など...
(実際は 11月22日のことなのですが、詩を書いてしまったので11月23日分として掲載しました)