火を踏みしめる少年1

アスファルトから陽炎があがって、
渋滞した国道の先の景色が揺らめいている。
朝から、なんという暑さだろう...
冷房のきき過ぎたバスに揺られ、冷え切った身体が
舗道に出たとたんに、眩暈を感じてぐらりと揺れる。

 

近くの修理工場で働く中東系の顔の壮年と
すれ違いざまに眼が合う。
睫毛の濃い、黒目がくっきりした眼をきれいなだな...と思った瞬間、
ふと、あの少年の不敵な眼が静かに記憶の底から蘇る。

 

ひとたびはポプラに臥す(6)

ひとたびはポプラに臥す(6)

 

嘗てガンダーラの都であったペルシャワール...
長遠なシルクロードの旅の最終地へ、マイクロバスで向かう宮本輝氏が目にした少年

....私たちは午前十時きっかりにサイドシャリフを出発した。
 「ガンダーラの都へ、ガンダーラの都へか...」
 私は何度もそう言って、広大な水田を見つめたり、ちょうど収穫期らしいタマネギ畑で
働く人々とロバたちを見つめた。
 幾つかの峠を越え、幾つかの町を抜けたが、そのたびに町は大きくなって活気づいていく。
そして、カエサルの言葉どおり気温も上昇しつづけた。
 昼近く、車は涼やかな桑の木に囲まれた村の入口で止まった。道路工事が行われていて、
片側通行になっていたのだった。
対向車が通り過ぎ、バットさんの運転する車が工事現場の横をゆっくり通過しようとしたとき、
私の目はひとりの少年に注がれて動かすことができなくなった。
少年は十二、三歳。黒い髪は汚れて、光らない金髪と化している。
手にスコップを持ち、工事現場の親玉の号令を待っている。
トラックが荷台に満載した熱いコールタールを道に撒く。炎があがりそうなほどに熱いコールタールの周りには、
汗まみれになって疲れ切った表情の男たちが、そのコールタールを補修中の道に
まんべんなく敷きつめる作業をするために親方の合図を待っているのだ。
 その現場で働いている労務者のなかにあって、少年だけが素足に薄いゴム製のサンダルを履いていた。
しかも、年少の働き手は、その少年ひとりだった。
 現場の親方が号令をかけた。少年はゴムのサンダルで熱したコールタールのなかに入って行き、
スコップでそれを崩し始めた。サンダルの底から煙が出て、
おそらく一瞬とて肌に触れることは不可能な高温のコールタールの山を丹念に道に敷いていった。
 私は少年の足から目を離すことができなかった。
足もサンダルもコールタールと同じ色になって煙をあげているのだった。
火のなかを歩いているのと同じではないのか...
少年の汗が落ちて、それは瞬時に湯気になって消えていく。
少年は、自分の横を通り過ぎていく車のなかからの視線を感じたらしく、作業の手を止めて私を見つめた。
 そのときの私がなぜそんなことをしたのか、わからない。私は少年の足を指差して、
両手を強く横に振ったのだ。足が焼け焦げてしまうぞ。早くコールタールのなかから出ろ!
足の裏の肉が焼け、骨も焼けてしまうではないか。早く出ろ!
私が言おうとしたことを少年が理解したのかどうなのかははなはだ疑問である。
だが少年は私を見て微笑んだのだ。
「それがどうした」
そんな不敵な微笑だった。
俺はいまのところ、こうやって働く以外に、生きる手立てを持っていないのだ。
足が焼けるくらいがなんだ...
少年は私を見つめてから、何事もなかったかのように高温のコールタールを踏みながら仕事をつづけた。
   宮本輝『ひとたびはポプラに臥す6』最終章 火を踏みしめる少年

どちらに進むか迷う選択肢もなく、日々の辛さを嘆いている暇もない。
生きる手立てがそこにしかなければ、そこで生きていく。
しかし、それは「いまのところ」なのだ
千年もの間、水のないまま砂漠に横たわり続ける乾河道が
いつか己が奔騰する濁流で、砂漠を真っ二つに割ってやろうという不逞に似ている。

 

仕事帰り...平塚のBar Scotch Catで元同僚のK氏と5年ぶりの再会。
K氏との出会いはまだ20代のこと...
部署は違ったが、急成長していくベンチャー企業で共に過ごした。
新規事業の立ち上げの過程で、面白い仕事をずいぶんたくさんやらせてもらった。
必死に働いたし、誰にもできない結果も出した。
しかし、上場し安定化していく会社の中で、浮沈の激しい自分は必要なくなった。
会社を去って今年で10年...当時同じ部署になっていたK氏も、
それからいろいろな部署に回され、ご苦労をされて...
55歳で早期退職の道を選ばれた。

 

仕事は堅実であるが、性格は意外と過激なK氏が、ここまでよく我慢をされたなと思う。
5年ぶりにお会いしたK氏の顔は、ひとつの闘いを終えた安堵からなのか
穏やかになられたように見えた。

 

嘗ての同志と、久しぶりの乾杯...
ScotchCatさんがチョイスしてくれたシングルモルトを何杯か...旨いな
楽しい語らいは時間を忘れさせ、気がつけば終電10分前...
K氏が駅まで送ってくれる。

 

これからまた、新たな闘いが始まるK氏と握手をして別れた。
あのころの不逞の輩の気持ちに戻って、頑張りましょう。

人間の生涯のなんと短き、わが不逞、わが反抗のなんと脆弱なる!
                    井上靖『乾河道』