苦痛が訪れる場所

小林秀雄箴言をぱらぱらとめくる。
平常時には、観念でしか理解できないものが、こういう時に心にしみる。
自分は まだ自分自身のことさえ何もわかっちゃいない。
もっともっと悩み苦しんで、闘っていかなければ、人生の深淵には触れられぬ。

たとえ社会が俺と言う人間を少しも必要としなくても、俺の精神はやっぱり様々な苦痛が訪れる場所だ。
俺は今この場所を支えているよち外、どんな態度もとる事ができない。
そして時々この場所が俺には一切未知なものから成り立っていることをみて愕然とする。
                                     『Xへの手紙』

俺が生きるために必要なのものはもう俺自身ではない。
欲しいものはただ俺が俺自身を見失わない様に俺に話しかけてくれる人間と、
俺の為に多少は生きてくれる人間だ。
                                     『Xへの手紙』

人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。
彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、
然し、彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。
                                     『様々なる意匠』

決断だとか勇気だとかを必要とする激しい行為にぶつかる機もなく、
又そういう機を作ろうともせず、日々を送っている人間は、心理の世界ばかりを矢鱈に拡げてしまうものだ。
別に拡げようとするのではないが、無為な人の心は、取り止めもない妄念や不逞な観念が、
入り乱れて棲むのに大変都合のいい場所なのである。
                                     『現代女性』

昨日のことを後悔したければ、後悔するがよい、
いずれ今日のことを後悔しなければならなぬ明日がやって来るだろう。
その日その日が自己批判に暮れるような道を何処まで歩いても
批判する主体の姿に出会う事はない。
別な道が屹度あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、
後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ
そういう確信を(宮本)武蔵は語っているのである。
それは、今日まで自分が生きて来たことについて、
その掛け替えのない命の持続感というものを持て、ということになるでしょう。
                                     『私の人生観』

「人間は苦悩を愛する」というドストエフスキーの愛好した言葉には、
少しもひねくれた意味はない。
ひたすら人間の内的なものの探求に力を傾けた人物の極めて直截な洞察が語られているだけだ。
苦悩は人間の意識の唯一の原因である。
調和、平安、均衡、安全を愛する精神というものが考えられるなら考えてみよ。
そういうものを、人間は、理性という一才能により或いは迷信という一才能により、
巧妙に或いは拙劣に獲得するにせよ、その時彼の精神は、精神の一番明瞭な特徴を失わざるを得ない。
叛逆や懐疑や飢餓を感じていない精神とは、その特権を誰かに売り渡してしまった精神に過ぎない。
                                     『悪霊』について 

今日も何人かの友人からメールや電話をいただいた。  ただただ感謝
これしきのことに負けてなるものか...腹の底から勇気がわいてくる。


ノスタルジーに惑わされるな。自分のすることを愛せ!