火を踏みしめる少年2

夏休みに1日有給休暇をつけて5連休にしたが、特に予定もなく...
買ってあった本を読み始めた。
題名は書けないが、今を時めく売れっ子作家の短編集
しかし、2作目まで読んだとおころで放り出してしまった。
お涙ちょうだい的で、こんなものを読んで泣いているひともいるのだろうが...
あまりにも浅薄すぎて読むに堪えない。
こんな本が巷には溢れて、ネット等の評価が高ければ売れるのだろうな。
何でも評価の時代...顔も名前も見えない人間たちの評価で、世間が動く。
キモチ悪い時代だ


精神の格闘の末に生まれた本物の文学に触れた後で、
化学調味料漬のような本を読むと、後味が悪いだけだ。


前回の引用があまりにも長かったので、今日はその続き...

ひとたびはポプラに臥す(6) (講談社文庫)

群衆の坩堝が、突然、私たちを包んだ。
かつてのガンダーラの都は、澎湃たる人間の営みで揺れている。
摂氏四十二度を超えているであろう暑さのなかで、
生き馬の目を抜こうとしているような夥しい人々がそれぞれの磁力を発して、
喋り、怒鳴り、笑い、口論し、交渉し、握手し、抱擁し、走り、円陣を組み、手を振り廻し...。
 けれども、私の心はひどく静かであった。
 火を踏みしめる少年を私はマラカンド峠の手前の村でたしかに見たし、
それは現実の光景であったのだが、いまは大きく形を変えて私のなかで私を見つめていた。
 「死」とは何か...。火を踏みしめる少年は、私にその言葉を刃のように突きつけている。


私は三十代のとき、何かのエッセーで
「いつでも死んでみせるという覚悟を持って、うんと長生きしてみせる」と書いた
が、それは所詮、観念にすぎなかったのではないのか...。
そんな思いに沈みながら、私はペルシャワールのパールコンチネンタル・ホテルの豪華なロビーで、
ワリちゃんとカエサルがチェック・インの手続きを終えるのを待っていた。


「死」とは何か...。仏教は、このたったひとつの問いかけから始まったはずなのだ。
 だが、その唯一の謎の解明のために、かくも厖大な経典を必要としたのはなぜなのか。
答えが「理」としてあまりに単純明快だったために、かえってそれが人々を迷妄の闇に誘う恐れがあった。
そのために答えを出すための準備段階を周到に用意しなければならなかった。
 その答えを信じさせるために、信仰についての人間の脆弱さを鍛えなければならなかった...。
 「俺はいつでも死ねるか。なんの恐怖もなく、その死のなかに溶け込んでゆくことができるか」...。
 シェライ氏が、私に何か語りかけてきて、私は顔をあげた。
   宮本輝『ひとたびはポプラに臥す6』最終章 火を踏みしめる少年


    (この前の部分は、前日の日記をご参照ください)

「死」とはなにか...
それは人生の一大事である。
「死」とはなにか...
それは、「幸福」とはなにか..ということに通じている。


「死」とはなにか...
人間はすべて、そこに向かって生きている。
だからこそ、そこからあらゆる哲学も思想も文化も生まれた。
そこに向き合わない芸術も文学も、浅薄にならざるを得ない。


「死」とはなにか...
それを避けていては、本当の「生」の意味も価値もわからないのではないか...
自己のの脆弱を鍛えなければ...
「いつでも死んでみせるという覚悟をもって、うんと長生きしてみせる」


生きねば...



↑ 先日、世界一周一人旅を終えた姪がお土産にくれた、サハラ砂漠の砂...