春はいっせいに

朝いちばんで魚津の客先を訪問し
評価をしていただくための機器の
納品に立ち会ってから打ち合わせ


仕事を終えて帰り道
ふと、大糸線経由で帰ろうと思い立って、
糸魚川で特急を降りる。

三十六年前の秋に買ったまま、ついに使うことのなかった糸魚川から信濃大町までの
切符に見入ったあと、私は車窓からあの橋を捜しました。
(中略)
三十六年前、私は十三歳。中学一年生でした。
ひとりで、行ったことのない信濃大町まで列車に乗って、よねかと逢って、
いったいどんなことを喋りたかったのか、何をどうしたかったのか、
いまとなっては思い出すこともできません。
おそらく、十三歳だった私も、何のために列車に乗ろうとしたのかわからなかったのでしょう。
だからこそ、糸魚川駅の改札口から引き返してしまったのでしょう。
  宮本輝『月光の東』

月光の東 (新潮文庫)

月光の東 (新潮文庫)

青年時代から宮本文学をよすがとして生きてきた自分にとって
小説の場面に出てくる場所は、懐かしい故郷のような気がする。
小説の舞台となった場所には、ずいぶん足を運んだものだ。
昨年末に読み返したこの小説に描かれる大糸線にも一度乗ってみたかったのだ。
(前回の日記 http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20121213


一両だけの小さなディーゼル車は、姫川に沿って険しい山間の鉄道を走り始める。
一週間ほど前から温暖な気候が続き、山に降り積もった雪は一気に融けだして
急な斜面を駆け下り、この川に注いで水嵩を増している。


雪融け水というと、ちょろちょろと小川に注いでいるようなイメージがあるが
衆流あつまりて大海となる...
そびえたつ山々に降り積もった分厚い雪が一気に融ければ、そんなものではない。
空は晴れているのに、大雨の後のような、逆巻く濁流となって川を下っていく。
人の入らないような山では、所々で雪崩も起こっていることだろう。
雪国の春は、怒涛のような勢いでやってくるのだ。



ふと、宮本輝氏の書いた文章を思い出す。

真夜中の手紙

真夜中の手紙

春は少しずつやって来るのではありません。ある日、いっせいに春になるのです。
世の中も同じです。少しずつ変わっていくのではありません。
あるとき、怒濤のように変化するのです。


病気が治っていくのも同じです。
薄紙をはぐように、という場合もありますが、治るときが来たら、一気によくなります。
これは真実です。商売も同じです。


だから、いまいろんな事情で悪戦苦闘している方々も、どうか歯を食いしばって進んでください。
いまよりも高い峰に登るために、いったんは谷の底に降りなくてはならないのは自然の道理です。


さあ、ぼくは新しい小説を書くためにまた悪戦苦闘を開始します。
   宮本輝『真夜中の手紙』


ある日いっせいに春になる...
電車の窓越しに、この凄まじい濁流を見おろしながら、この言葉が胸に迫ってくる。
人生においては、予期しないときに突然春は来るのだろうな...
いっせいに春が来るのはいつの日か...
悪戦苦闘しながら待つしかないのだ。

「人間の勘違いってのは、常に期待して待つことじゃないかな」(中略)
「幸運を予期して待っていると、いつも落胆するようなことばかり起こるだろ?
 本当の幸運は、有り得べからざるときに、ひょいと顔を出す。
 俺、そのことだけは、心に言い聞かせとこうと思って....」
    宮本輝『花の降る午後』

信濃大町で途中下車
北アルプスの山々が青空の下で輝いている。
観光案内所で無料の自転車を借りて、周囲を散策
どこから見ても、山が美しい。




そして、蕎麦をいただく。
地元でとれたソバ粉をお店で打っているという蕎麦は
透明感と弾力があって、蕎麦のいい香りがする。
こんな美味しい蕎麦には、なかなか出会えないと
ご主人に言ったら、表情のなかったご主人の顔がほころんだ。